2011年11月22日火曜日

ウイングフィールド代表:福本年雄さんインタビュー②


大変お待たせ致しました。C.T.T.大阪事務局の新企画・ウイングフィールド代表・福本年雄さんへのロングインタビュー、第回目です。
ウイングフィールドオープン前夜から直後あたりまでを振り返っていただいた前回に続き、2回目はウイングフィールドスタッフ・寺岡永泰さんと共にざっくりと「1990年代のウイングフィールド」という枠組みの中で語っていただくということで始まりましたが、それに留まらず広く現在の、そしてこれからの大阪小劇場演劇を巡る劇場側の視点から見た状況・展望についても語って頂いた、非常に読み応えのあるものに仕上がっております。今回もほぼノーカットで掲載させて頂きます。 

ご意見・ご感想、ご指摘等ございましたら、是非お願い致します。(三田村)

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三田村 前回は、このウイングフィールドのオープンに至る道のり、そして亡き中島陸郎(註1)さんとの出会いから、オープン直後の話ということでお聞きしたんですけれども、今回はオープンしてからの約10年程度、90年代の話ということでざっくりと聞かせて頂けたらと思います。僕自身、大阪の小劇場の90年代がどういうものだったのか全く知らないので、どのような感じだったのかということを福本さんの目線でお話を聞かせて頂けたらと思います。とりあえず、3年目の黒字までの道のりといいますか、それまでにどういった苦労・出来事があったのかと思いまして・・・

福本 まあ一生懸命というか必死やったね。まあ夢中やね(笑)。だから経営的なことを言えば当初は2年間赤字が続いて、まあ3年目になって若干黒字になりました、程度の数字なんやけどね。普通企業とかになると黒字ですというと何百万、業態にもよるけど何千万、何億っていう立派な金額になると思うけれども、こういう小劇場をしてたら数十万。

三田村 黒が出てもそのあたりの金額になるということですか。

福本 そう、やっぱりここの場合もそうですけれど、家賃を一応払っているわけですよね。母屋ウイングスビルというビルに、有限会社ウイングフィールドっていう6階を経営している会社から―だから自分に自分でお金を払っているわけ。その代わり、見返りとして、会社の目的の中にビルの管理ということも入れているのね。つまりその小劇場全般を経営していくということがメインなんだけれども、まあそこの中には、色んなことが言えるじゃないですか、アーティストの発掘とか、舞台演劇を啓蒙する、広めていくという昔の目的、その中にリアルな話やけど一応ビルの維持管理も引き受けますということが入っているのね。だからビルからの見返りは、ここに名目やけれども、ウイングのホットプレスを見て頂いたらわかるんやけど、ここに広告を入れているでしょ、広告料ということではないけれども、ビルの維持管理をウイングフィールドにしてもらってるということで、毎月20万円以上ビルからウイングフィールドに払われてるのね。それは家賃を払う見返りなんですよ。で、その家賃なるものも、中々実は払えない状態が続いていて(笑)、自分に自分で払うわけやけれど、そんな3万とか5万とかの家賃やないから・・・

三田村 そうですね・・・

福本 一応28万、共益費や光熱費を入れると30万、超える家賃やから、やっぱりそれを毎月払っていくっていうのはかなり厳しい、今でも正直厳しい。まあそうして回していくということをしなくてはならなかったわけですね。今でもそれが続いているわけですけど、それはやっぱりね、一番ベースにあるところなんですよ。経営していくっていう中でね。
一番よく問題になる公立劇場と民間劇場の違いなんですけどね、公立劇場は家賃を払わなくていいじゃないですか。少なくとも。民間は扇町ミュージアムスクエア(註2)があった時代も、スペースゼロ(註3)があった時代も、恵まれてたと言われてる90年代の環境、近鉄劇場もあった、(近鉄)小劇場もあった、みなそれぞれ会社じゃない。株式会社だったり有限会社だったりっていう形態をとっている。或いはスペースゼロの場合は各種学校、家賃そのものは発生しない業態もあるけれども、殆どのところは何らかの形で本体に対する家賃だとか収益とかそういうものはあげなあかん。で、単独の会社であっても、例えば近鉄興業という会社があったとしたら、当然収益をあげなあかん。こんな小さなウイングフィールドも、ウイングスビルもそうなんですけど、ビルとして黒字で収益を上げて税金を払わないかん、借金を返さないかん、ウイングフィールドという小っちゃな有限会社もビルの1テナントとして入ってるわけやから、そこのちゃんと収益を上げて、家賃も含めたものを払っていかなければならない、税金も会社として払っていかなければならない、全てついてくる、これは今でもそうなんよね。逆に公立劇場さんは家賃を払わなくてもいい代わりに企画を立てたり、色々行政の本体と折衝したり、それこそアイホール(註4)さんやメイシアター(註5)さん、芸術創造館(註6)さん、精華小劇場(註7)もそうでしたけど、税金やそういうものを行政単位のハコは払わなくてもいい代わりにその予算を獲得するための様々な動きを館長さんとか、プロデューサーって言われている方とかが行う、常にそういうリアルなものがまずありきなんですよ、残念ながら。これは今でも。で特にこういう風に指定管理者制度(註8)になってきたら成果を上げないと。で、成果っていうのは演劇的な内容の成果ということ以上に、今はどれだけ回転しているかということだよね。

■ 成果主義化の行く末は 

福本 あの、アーティストの人たちにそこまで言うのは酷な話なんですけど、これはリアルな話やから特に若い人に聞いて欲しい話なんやけどね、官民を問わず今は成果主義が全て。どんだけ芸術的に優れたプログラムをやっているかというのを評価するのは、劇評家だったりジャーナリストだったり、メディアの人或いはお客様或いはアーティスト仲間じゃないですか。でも一般社会の人は観てわからへんねん。残念ながらわかる人とわからへん人がおんねんね。何をやってんねんと。一番わかりやすいのはその劇場が何百万儲かりました、公立劇場であったらどれだけ収益を上げましたかとか、或いは近隣の人にしてみたらその劇場に来る人がどれだけその地域に金銭的な貢献をしてくれるとか、買い物をしてくれるとか、一般で言われているようなシャワー効果を与えてくれるのかとか。或いは大阪市でもそうですけれど精華小劇場がどれだけ芸術的に評価を得ようが拠点を目指そうが、それよりも、それは建前の部分で、それ以上に地元が潤ったり地元の人たちに評価されてる或いは全国発信、皆が観て一目瞭然な、わかりやすいアーティストが来ているか、そしてもう一つは劇場がどれだけ回転しているか。精華みたいに演劇祭単位でやっているところは、途中から貸し館になったけれども、その貸し館もどれだけ使われているか。で、或いは地元行事もどれだけ行われているか。つまりそのハコがどれだけ社会的な貢献をしているかなんですよね。で、収益をあげているか。今はここを観られるのね。

三田村 やはり以前よりもそういう見られ方は厳しくなっているということですか?

福本 厳しくなってる。今まで小屋代があまり発生してこなかったような所でも、今後はその―国自体が、今多額の一人頭七百万の借金があると言われているでしょう。赤ちゃんからお年寄りまで。それだけ国がしんどくなっているわけやから、言ったらこれまで投下されてきたような文化や教育、演劇も含めた、心の滋養になるようなものに対する支出も当然減らされてるやん。だから今、助成金という名目で劇団は受け取ってはるけどそれもかなり厳しくなっているでしょう。

三田村 そうですね、うちもたぶんこれ以上取られないだろうな、という空気は感じますし・・・

福本 結局はわかりやすく言ったら去年の事業仕分けとか、国が大変やから削れるところから削っていこう、あとは自助努力をしなさいという方向に転換していっているわけでしょう。だからそれぞれの末端にある公立の劇場、それに準じるような場所、企業の劇場もそうですし、特に公立劇場なんてそうなってきているけれども、どれだけ成果を上げるか、どれだけ回転率を上げるか、と同時にその地域に貢献できているかということを見られてしまう。だから小さな芸術の世界の中だけでいくら評価を高めようとしていても、それではわからん、わかるひとにはわかるけど、わからんひとにはわからんやないかと、ましてこんな厳しい経済状況の中に置かれている日本やから、余計、国にゆとりが無いから、今までやったら素人にわからんことをやってても、芸術やってるんやから、それはいつか国にも社会にもバックしてくるものをもたらすんやから、っていうことで、ある種大目に見ていたところはあったんやろうけど、これだけ国民一人当たり借金があるよと、国自体に借金がありますよと。で、地震が起こってくる、原発騒ぎになってる、となるとますます将来においてたぶん文化は厳しい試練にさらされていくと思う。そのところをやっぱりね、これからアーティストの人たちは若干頭の中に入れながら自分たちにも直接絡んでくることやから、表現をしていく事やと思います。
我々小屋はそうして皆さんにいい表現をしていただく為に、勿論払うものは払い、待ってもらうものは待ってもらってるわけですけども、小屋の努力をわかってくれということではなくて、現実そうなっていて、公立劇場さんも民間も、どれだけ成果を上げるかっていうことに評価が置かれています。むりやり堺筋演劇祭(註9)で公立劇場の方とお話しする機会があるんやけど―今までは何とか来れたけれど、これから企画もので、小屋代を払わんでも何とか予算を獲得してやってこれたものでも、将来どうなるかわからんねえっていう―つまり、若干表現する側からもお金を貰わざるを得ないようなことになる可能性無きにしも非ず、というふうな事を聞いて。或いはそれを避けるためだったら、前提としてその空間・劇場がどの程度収益を上げているか、それを求められている時代だと。ドーンセンター(註10)さんなんかその典型なんですけど、助成金をもの凄く削られてるねんね。

三田村 「もの凄く」削られてるんですか?

福本 らしい。だから貸し館でどれだけ収益を上げるか。今男女共同参画青少年センターって名前になってるでしょう、府立青少年会館(註11)が無くなって、合同であそこで、今まで青少年会館でやっていた機能も引き受けなさいってなっていて。あそこは演劇だけじゃなしに、色んな貸し館として機能しているでしょう?企業さんの勉強会だったり・・・

三田村 1階(パフォーマンススペース)を使っての演劇公演も増えてきていますね。

福本 ああでもして回さないと・・・

三田村 使っていない、と見なされるということですか。

福本 そう、そうすると助成金くれないし、今やってる財団出て行けということにもなる。おまけに黒字を出したらその余剰金は府に納めなさいと。平たく言えば、やくざの言葉を使って言えば、大阪府・親会社が厳しいんやから上納金を出せ、ていう状況になっているわけやね。で、本来の男女共同参画財団がこれまでだったらなんとか助成金というか、運営資金は府から下りていたわけやけれど、がさっとカットされて、自助努力して稼いでくれと。回転させてくれということになってあそこの職員さんは必死になってやってはる。企画して、外に自分達が出て行って、講演して、講演した分もドーンセンターを運営している財団にギャラを入れて、っていう状態。他の公立劇場さんたちだってやっぱり厳しい。これからどう生き残っていくか、今まで余裕でやってたようなところでもどれだげつめていけるか、やっぱり数字で評価されるから・・・というようなことがすごく問われてきている。
それは劇団さんだって同じ事で、助成金が厳しくなってきているから、もう自分達が払って運営していって、何とかしてくれと、例えば公立劇場のプロデューサーさんとか館長さん達に何とかして下さいと頼むやん。そういう場合もあるやん。我々民間のところやったらまけてえやって話になるじゃないですか。当然のことやと思う、劇団にしてみたら。段々そういう風にこれから変わっていくと思うし、助成金を取ろうと思ったら、どれだけわかりやすくて成果の上がる企画を立てていくかというところで。あと、収支の明確性など…。

三田村 企画力が問われるわけですね。

福本 企画力と即効性やねある意味の。答えをどれだけ早く出せるか。だから当初の建前的には成果も上げて、そして同時に研究成果といっていいのか、発表成果といっていいのか、も上げていく。・・・こういう小劇場とか芸術文化なんて、本来そういうものとは別やったはずやん? 

三田村 いや、全くその通りで、好きなことを好きなように・・・

福本 うんうん、そしてそれを観てくれる人に、何らかの観てよかった、いい時間を過ごした、心の滋養というか、栄養を与えることが出来たらそれが成果やったわけやないですか。今はもうそういうことは、あんたら自分で好きなことをやってんのやろ、的な、じゃあ自分で金出してやりいな、っていうことに変わりつつある、段々。

三田村 社会とどうコミットしていくかということを考えなくてはいけない時代になってきたということでしょうか。

福本 シェルター、そういう空間、三田村さんが正に仰った通り、自分達の好きなことをやらしてもらえる、それが周りの人たちに影響を与えていけばいいじゃないか、それが成果ですと言い切れた訳やけど、今はそうじゃなくてもう段々、そんなんやったら自腹でどうぞ好きなところでやってくださいと、好きにやったらええやんていう、お金出して趣味なんやろあんたらと言わんばかりのそういうところに傾きつつある。お金もらうんやったらそれに見合っただけの社会的な意味を作って下さいよっていうことに段々となってくるんじゃないかなあと。
僕はちょっと恐れているところがありましてね、劇団さんにも社会とどう向き合いながら、しかも自分のやりたい表現とどう戦っていくか、ってことなんじゃないかなあ。アーティスト本来は本当に孤独な作業で自分と向き合って表現を作っていくことやったと思う。芸術って言うのは全般的にそういうものでしょう。作家さんが本当に身を削って書いた台詞を役者さんたちがやって、そして役者さんたちも本当にその台詞と向き合って、自分と向き合ってその中から厳しい思い・しんどい思いをして一つの作品を作っていく、それは金銭にはか短期的には変えられなかったもんだと思うのね。

三田村 そうですねえ・・・

福本 まして小劇場だったらそれが直ぐ何百万何千万という収益は上げないし・・・

三田村 金銭を上げたくて・・・そもそもそういうものじゃないという。

福本 だから結局ね、甘いって思われんのよ。お客さんはそこそこ入って欲しいは自分達のしたいことはしたいって、子供の理屈やでそれって、と。

三田村 多分皆そこで、ずっとそういうせめぎあいの中でやっているんじゃないかなあと。

福本 そうなんです。社会の人たちは正にそこに目を付けてきているというか、社会の人というか削ろうとしている人がね。今までやったらあんたら遊ばしといたけれど、これだけきつくなってきたらちょっとは貢献しろよと、その貢献度はなんやといったら数字を上げろと、成果を出せよと、いうことになってきているんじゃないかな。そして企画を作るんだったら、じゃあそれに見合うだけの企画力を持てよと。それは恐らくどこの劇場も公立劇場さんだって、皆さんそこで厳しい思いをしてはるだろうなあと。だからこれから僕らも民間も含めて、これまで以上にどういうことをやっていくのか。
我々民間だったら逆に答えは簡単やねんね。ある収益さえ上げていればそれでええねん。例えば100万円より200万円上げている方がええわけよ、お国にとったら、或いは行政、大阪市や府にとったら、100万円より200万円儲けてる会社の方が税金を払ってくれるわけやから。

■ 劇場と劇団の関わり方

福本 ただ、ただね、僕らのこういう小劇場、お分かりやと思うけれども、ただ貸し館だけで何でもよろしいねん、ということではいかんやん。やっぱりそれは経営している私たちが、ウイングフィールドというものはこういうハコで、こうありたい、それは何だと言われた時に―こんな小さい空間で採算は取りにくいです、だけど、ここを選んできてくれる劇団の人たちに自分のやりたいようなことをやって頂くようにする、で、その実験的なキャパ100以下の空間でより実験的なことをしていただく為に存在する実験空間です、中島陸郎の言葉で言えば、野戦病院(註12)的な劇場です―そのための色はやっぱり出したいなあと。それはやっぱり劇場を、こういう厳しい状況で劇団さんも本当に厳しくなってきてるわけやから、当然お金出して借りる民間劇場って選んでくると思うのね。劇団側は。僕はそう思ってるねん。

三田村 難しいところではあると思うんですけど・・・

福本 民間でやるか公立でやるかっていうまず第一前提があって、じゃ公立劇場で出来なかったら民間劇場でやるということになってきた時に、これだけ様々な空間があったらやっぱり選別してくるね、お客さんである劇団さんが。そうしたらお客さんである劇団さんにどれだけ我々民間劇場がその特色でお迎えできるか。勿論値段のこともあるでしょうし、プラスアルファとしてそこにいるスタッフのこととか、或いは劇場の空間、ハードとしての特色とか、そういうようなこと。だから我々としても、ただ100万円より200万円あげたらいい、それはわかってるねん()、だけど、それ以前にやるべきこととして、せっかく儲かりもせんのにこんなことをやっているとしたらよ、それだけ劇場としての特色を打ち出して、劇団さんというお客様と信頼関係を築いて、選んでいただいて、尚且つやりやすいような条件を一緒に考えていく、それは値段の面も含めてこれからもそうやとおもうし、そういうやっぱり平たい言葉で言うと経営努力やね。そのことをやっぱりしていかないと生き残っていけなくなると思う。これだけ演劇環境自体が厳しくなってきてたら劇団さんも厳しい、そして、国も厳しい()

三田村 皆厳しい(笑)

福本 皆厳しいとなったら、お互いに食い合いになってくるような状態、だったらどこまでその状態を・・・喧嘩するんではなくて、信頼関係という大切な、人と人の、我々演劇人の―私も演劇人と言わせていただくけれども、端くれとして―信頼関係でやってもらってるわけやん、まあウイング行こかと、ウイング行ったらまあ値段はそう安くも無いかわからんけどやりやすいようにやらせてくれると思う人もおるかもしれませんし、あそこの空間が今度の芝居には面白そうやから、やらしてもらおかと思って来てくれはるわけやん。それってやっぱり信頼関係やと思うねん。それを、そこまで思ってもらうということが大事なことやと思うのね、劇場としたら。・・・よう似たハコ幾つかあるやん()、ウイングだけじゃなしに。大きさとか色々な面を含めて。その中で、例えば空の驛舎さんが3回に1回なり、2回に1回なり、毎度ウイングを使って下さるということは、あなたたちメンバーの人たちが、ウイングフィールドというハコに対して信頼をして下さっているということやと思うねん。

三田村 それはその通りです。

福本 ありがたいことやと思う。で、そのありがたさを維持していかな、なんぼ厳しくなったって共生関係、そういう人間関係はやっぱり大事にしていかなあかんことやと思っているんです。それを無くしたら、ほんとに昔それこそ90年代によく使われた言葉だけど演劇不動産っていう・・・

三田村 演劇不動産、ですか?

福本 うん、ハコ貸してるから。言ったら3日間で何十万てあるじゃないですか、不動産業って、貸しビルなんてやったら一番わかりやすいけど、うちでもやってるような、この部屋一つに家賃を払ってもらってるわけやん、つまりその土地という不動産を劇団さんに貸してるわけやん。このウイングフィールドという空間を。で、そこで頂いてるわけ。小屋代。家賃じゃなくて、ウイークリーマンションのようなもんなんで、平たく言えば。だからこれはね、ある劇場のプロデューサーが言った言葉なんやけど、俺等ほんま演劇不動産ですよねって。実際そうなんです。近鉄さんだって扇町さんだってゼロさんだってうちらだって小屋代の発生してるハコは皆実は演劇不動産()、で、その不動産業としての、特色として、それだけじゃない劇場としての特色を出してきはったわけやし、ウイングも及ばずながらウイングという色を出していたわけやし。

■ ウイングフィールドの色

三田村 そのウイングの色というのは、オープン3年ぐらいで福本さん的には固まってきていたのでしょうか。

福本 経営的には厳しいことは100%今に至るけれども、そうやね、3年・5年・・・大体そこへ出てる劇団さんの色も出てくるじゃないですか。そうすると、僕らはそんなに意識して無くてもお客さんととか劇団仲間の人たちが、そういうレッテルというか色で観はるやん。で、僕ら自身もそこで表現される演劇を見ていると、まあどっちかというと実験的なこと、或いは戯曲を大事にしている。エンタメというふうにして100より500、500より1000を目指す劇団は1、2回は公演するけども、すぐ大きい所に行ってしまう。そうなってきたらこの劇場は経営的なこと以上に、そこにかかるプログラムで勝負する。そのプログラムが何かって言ったら、実験的なこと或いは作家主義の劇団さん・実験的な劇団さんに使われる。そこで大体演劇の観客の方も劇団さんも観はるやん。恐らくそこで色がつく。
で、この前も言ったかも知れんけど、中島さんがよくそこで上演する戯曲を、過去の作品を読ませてもらったりしてたのね。応援する意味も含めての為に。で、敷居の高い劇場やとか、検閲されてるとかね、寺岡さんなんか知ってるとかも知れへんけど、この人の流星倶楽部てのも、作家さんの書いたホンを中島が読ませてもらったりね、アドバイスするとか、難しい言葉で言ったら、皮肉をこめて言ったら、検閲やと、どうもウイングは敷居が高いと、あそこのプロデューサーの中島陸郎はホンを検閲してると、ケチつけると、いうような噂が出たんですよ()。だから今でも恐らくそういう色は残ってるかも知れない。割と敷居が高い小屋やと。

三田村 勿論実際はそんなことないですよね?

福本 今僕らは別に賢司さんのとこにも伊藤君のとこにも、岩崎さんのとこにも本出して下さいとは一切言いませんから()

三田村 出せと言われれば出します()

福本 ()そんなことは一切中島陸郎は触れたことは無いんです、ただ興味があるから、折角やってくれるんやったらホン読ましてとか、で、書けないとか言ってきて一度中島さん見てくださいって若い作家さんたちがやって来られたのね。どうも書けないとか、悩みを打ち明けてはってん。そうすると中島もほっとけないから、ホン読ませてもらってアドバイス出来るところはしましょうとか、或いは出来上がった完成稿とか、このウイングでやるホン、過去のホンを読ませてもらって話をしましょう、それは批判するということよりも、まずその劇団の特色を知った上でこのウイングという空間の中でやって頂くにはどうしたらいいかを一緒に考えようとか、或いは他所の劇場で上演するんやけれども、一回中島さん読んでというような人も含めて、それはまあ小屋としての一つのサービスやったんですけどね。プロデューサーとしての中島陸郎という看板がいて、その人を頼って来はる人が多かったから、その中で中島陸郎という看板の存在が当時の若い劇作家さんにとってやっぱり信頼のマークやったんよね。

三田村 ブランドみたいなものですか。

福本 うんうん、だから中島さんがいる小屋でならやってみようとか、或いは中島陸郎さんにホンを読んでもらおうかとか、色々話がしたいとか、ということで来てはったんけれども、それがいつの間にか、全然使ったこと無い人含めてどうもあの小屋敷居高そうやぞと、一々台本持ってこいって言われたら困るやんみたいな(笑)、噂になってたのね、で、そんなにめちゃくちゃ安いか言われたらそうでもないっていうこともあって、敷居が高そうな小屋や、その割りに採算取られへんやないか、100人も入るか入れへんかやから、っていうことになってたんですが、そのことも含めて、僕はやっぱり実験的な空間としての色が、そのあたりで出てたなと思う。それは恐らく今に至ってもついていると思う。

三田村 そうですね。ちなみにプログラムの初期とかは中島さんが引っ張ってきた劇団は勿論、当然全くつながりの無い、ここでやりたいという劇団、貸し館もあったのでしょうか。

福本 うん、でも貸し館というよりは何らかの形でまけてたね。小屋代も含めてね。たまに貸し館も今でもやってますけれども、殆どはやっぱりなんらかの冠は付けてたね。それはまあ劇場としての応援する姿勢、だから協力公演とか提携公演とか、若手劇団応援シリーズとか、今寺岡のやっているウイングカップですとか、昔の再演博とか色んな名前付けてるじゃないですか、それは言ったらそこによって値段のランクとか、内々的な、数字的にいえばそうなんやけど、同時に劇場として劇団さんを応援してますよという証でもあるし、そのことが、リアルなことだけで言えば劇場が劇場として頂くお金のランクになってくることでもある。それはやっぱり儲かる儲からないということと同時に、収益をそれなりに上げていかざるをえないという、それこそ演劇不動産業であるところのぶっちゃけた話や。

三田村 こんなことを言ってしまうのはなんなんですけど―実験的な空間でかつ、収益を上げていかなくてはいけない、というのは凄いジレンマがあって、難しいだろうなと・・・

福本 ()だからこの前1回目に愛憎といったことは、そういうことも含めて。だってそら単純に考えてもうちょっと楽なこともしたいし、もうちょっと空間的な広さがあればそれなりに、と思うときもあるのよね。でも大きな劇場の人と話したことあるけれども、大きな劇場の人に言わせると、大きな劇場になればなるほど苦しみはあると・・・

三田村 ああ、そうですよね・・・

福本 その民間劇場の人と昔話したんやけどね、当時近鉄劇場(註13)のプロデューサーだった方と話したんやけど()、その方が仰ってましたけれど―君の方が楽やよ、俺等みたいなハコになってみ、どれだけ言われるかって。それはそうで苦しみはあったんでしょう。やっぱり企業がやってるということは、収益を、企業の看板を背負ってはるわけやから、ここを単体で黒字をださなあかんわけやから、その部分と1アーティスト、アーティストの味方としての良心とがせめぎあう、で、1番そこで陥りやすいのが魂を商売に売っちゃうことなんですけれどもね・・・

■ そして1990年代・演劇と社会

三田村 3年目で黒字に至ったということは、要は劇場として回りだしたと言うことなんでしょうか。

福本 うんそう、平たく言えば。

三田村 ぎっしり埋まっている感じだったんでしょうか。

福本 あのね、これはウイングがオープンしてからのホットプレスのバックナンバーなんですが、本当に1990年代の後半から1、2年間はもの凄く多かったね。扇町(ミュージアムスクエア)より回転していた。

三田村 へえ・・・凄いですね!

福本 (中村)賢司(註14)さんなんか来はじめて頂いて―まだ来るか来はれへんかの時点ぐらいかもしれへん。ホットプレスはいつでもウイングに置いてるあるので観てもらったらわかりますけど、90年代後半は入ってましたよ。

三田村 その後半というのは具体的には?

福本 つまり、それがオープン5年目とか7年目とか10年目くらいまでの間。軌道に乗ってきたってことなんやろうね。色も見えてきたけれど、逆に1回とりあえずウイングでやっとこうか、(扇町)ミュージアム(スクエア)行く前にウイング行っとこか、みたいな。

三田村 そういう劇場双六の中の一つになったってことなのでしょうか。

福本 うん、そういう演劇双六があっての話でもあるけどね。それはやっぱり時代も良かったし、ファームがあるようなものやんか、1軍があって。スペースゼロさん、カラビンカ(註15)さん、他にも小さな空間があったんですよ。そういうところで実験的なことをやるとか、或いはミュージアム行く前にとりあえずこの辺でやっとこうかと。例えば記者さん、劇評家さんが来はるとかっていうゾーンに入ってたから。それもうちの周りは中島陸郎さんがいたからなんやけどね。とりあえずそのゾーンに入っていた所為もあって、例えば当時、扇町ミュージアムスクエアの企画でアクトトライアル、っていう規模は大きいけどウイングで言うところの若手劇団応援シリーズと同じようなもの、つまり登竜門的なとこがあって、そこで出て評価が上がったらそこの提携公演になれるみたいな、そういうシリーズがあって。

三田村 名前だけは耳にしたことがあります。

福本 そこにノミネートしてもらう為に、まあその中でウイングだけからでは無いんですけど、そのいくつかの中にウイングが入っていて、ここから行った人がわりと多かったね。だからそういう全ての面で環境が良かったんやね。

三田村 そうですね。OMSも近鉄小劇場もありましたし。

福本 他府県にも行きやすかったし―まあ他府県って東京やけど(笑)、まあ色々な面で相乗効果はあった。

三田村 他の劇場もあって全体的に盛り上がっていた感じでしょうか。

福本 今は、現状の(劇場)数だけ言ったら増えてると思ってるねん。2011年と1990年代後半あたりを比べた時に。カフェとかも含めてね。

三田村 (現在は)小さなスペースが増えていて、総体としては多いのだろうなとは思います。

福本 ただ今は演劇双六が無くなった・それを支えていた経済状況が当時は良かったとか、全てそういうところに集約されていくんやろけどね。やっぱりバブル崩壊してもしばらくはまだ余力があったから。90年代後半ぐらいは。

三田村 そうですね、90年代後半はバブルが終わってぎりぎり辺りの頃で。

福本 ちなみに三田村さんなんかは扇町(ミュージアムスクエア)の記憶は持ってはる?その頃は学生だった?

三田村 ええ、僕が小劇場を観始めたのが2000年なんですよ。ぎりぎりOMSで芝居や映画も何本か観ていて―あの柱2本の空間。僕が最後に滑り込んだ世代じゃないかなと思います。

福本 2000年に入って、大きな劇場を支えていた経済状況が厳しくなったから、大阪ガスさんも、近鉄さんも手を引いちゃった訳やんか。ひいてはスペースゼロさんを支えていた専門学校ももっと教室として稼動させたいということでゼロを閉鎖しちゃった。そういう時代性っていうものが今正反対のところに来ているよね。経済状況が厳しいから劇団事情も厳しいし、小屋事情も、ハコがこんだけあってもとっても厳しいから、なんとなく今停滞しているっていう・・・状況になってきているんちゃうかな。

三田村 つまり、90年代は今とまるで逆だったということなんでしょうか?

福本 すごくそれは感じるね。

三田村 あらゆるものが逆になったという。

福本 確かに良かったよ、90年代はその意味で言えば。元気のある劇団も多かったし。まあ賢司さんだったり寺岡君ところだったり深津さん(註16)とこや、鈴江さん(註17・・・つまり岩崎さん(註18)よりちょっと下の人たちが、今40台半ばくらいになりはった、66、7年生まれくらいの人たちが、あのへんの人たちが、第一世代を追いかけてきた。で、元気もあったんよね。場所も恵まれてた。それを支えたのは経済がまだ何とか回っていた、っていう・・・全ての面でその上にわりと乗っかってたんだよね。勿論第一世代―中島らも(註19)さんや新感線(註20)さんや内藤さん(註21)らがいて活性化していた、その活性化していたのは何故かって言ったら、正に経済が良かったからで(笑)

三田村 もう全てにおいて経済(笑)

福本 いや、内藤さんなんかとお話していてもそれはやっぱり感じると言ってはったから。自分達は恵まれていたって。オレンジルーム(註22)はあったし学生時代の時は。そしてその後OMSさんで稽古も持てて、育てられて、で、余力で大阪城ホール行ったり(笑)そっから先はだよ、って言ってはったからもう・・・

寺岡 だって新感線とか万歳とか、まだまだ若い頃に大阪ガスっていう大企業があそこでどうぞって貸したわけやから。

三田村 大阪ガスがですか!・・・

福本 あの建物は大阪ガスのものなんです。ビジネスクリエイトとか色々絡んでたんやけども、まあ言ったら子会社やんか。エンターテイメントを扱ってて今でもやってはるけれども、建物は本体のものやから恐らく。いっぺん山納さん(註23)に確かめてもらったらと思うけれども。やっぱり大企業が支えていたということじゃないかな。近鉄興業だって、近鉄さんという電鉄さんがね。

三田村 企業にまだお金を出す余力があったということですね。

福本 そうそうそう、ある程度赤字も大目に見れた。まだ厳しい数字も。

寺岡 近鉄電車に中吊り広告を毎月張ってありましたね。今月のラインナップ・・・

福本 近小とか。アート館もそうやったね。近鉄の阿倍野にアート館っていうのがあってね。そこも演劇とかやってはってんけれども。皆そのプログラムがちゃんと近鉄電車乗ったら中に張ってあってん。今そんなことは無いじゃない(笑)、宝塚とか劇団四季ぐらいで。もう新幹線であろうがどこであろうが平田オリザ(註24)さんであろうが載らない時代ですけれども。梅田芸術劇場くらいがたまに阪急電車にのせてるくらい、本当に無くなっちゃったでしょ。
これは本当にね、若い人に特にわかっておいて欲しいし一番わかりたくないところやと思うけれども、経済なんですよ、ベースは。経済動向をしっかり、嫌でも見つめざるを得なくなってくる。続けていたら。恐らく三田村さんもそうやと思うけれど、劇団に入って、あなた達が一番ある種僕らから見たらアンラッキーな・・・しんどい時代に入っちゃって・・・

三田村 氷河期みたいなものなんですかね(笑)

福本 おいおいっていう、ミュージアムとかなんやねんあれっていう風に、それこそ10年前の世代の人なんなんや、という風に思われたかも知れへんし、僕らはちっとも恵まれてないやんていう(笑)・・・

寺岡 三田村君はどうありたい?これから。

三田村 えっ、僕の話ですか?

寺岡 そこがやはりポイントになると思うもの。

三田村 何でしょうね・・・でも昔に戻ることなど不可能じゃないですか。華やかな時代に戻れない中でどうやってこう・・・

福本 それをね、やっぱりね、一緒になってこれから小屋者と劇団が考えていく・・・

三田村 そうなんです。答えなんて出ないし・・・出ないです。

福本 ただ理想として、こうありたいというビジョンというのは持ってたらいいと思う。ただそれに行く為には今は昔よりはより厳しい、そういう現実を見ないと。そしてさっきの言葉にもあるけど社会とコミットしていかないと。一番見たくないものを段々見ていかざるを得なくなるし、それに対してやっぱり、表現を通じてあるいは劇団にいるということ自体、そのことを意識してやっていかないと、文句ばかり言っていたら子供扱いされちゃう。と思う、これからは。だからお金出してあんたら趣味やねんから文句言うなと、橋下前知事なんか一蹴するよ。好き嫌いは別として―僕は嫌いやけども(笑)、お金にならないものは要りませんって言わはるやん。大阪の人にしてみたらわかりやすい、銭にならんものはいらんわということを代弁しているわけやし、官の常識、民の非常識をそのまま持ち込んできて、どんどん収益性を上げるものにしていきたいと、民間並って言うけど、大阪そんな、街自体冷えとるでと僕は思てんねんけど()そういうところを見ていかないと、生き残っていかないし、表現をしながら、ある程度社会的にも責任というか、こうありたいから、ということは言っていかないといかんし、そのために表現もどうあるべきか―そりゃ何も僕はね、社会を啓蒙するような、昔の新劇がやってたようなことをしろ、とは絶対に言わんし(笑)

三田村 僕も逆にそれで表現が面白く無くならないかと・・・

福本 うん、そう思うねんけどな。

三田村 社会の為に演劇をやっているわけではないんですから・・・

福本 うん、けどそこはそこで、じゃあ正にどう社会と向き合いながらそれに対して―お前等の為に俺は芝居してるんちゃうねんという表現のベースにあるものを崩さずに―どう伝えていくかやろうな。それは只単に戦うだけじゃないかもしれないし、一番嫌な言葉を使うと妥協というかグレーゾーンというか、そういうものをどこで見つけ出していくか・・・

三田村 戦い方を考えなくてはいけないのではないかということですよね。

福本 平田オリザさんだって、そこで恐らくぎりぎりのところでそういう表現をして戦ってきた人やと思う。あの人が一番そうやと思うし、燐光群さんはずっとあの凄い芝居をもってあちこち回って戦い続けているわけやし、そのベースにあるものは何なのかっていう・・・三田村さんが今言ったような俺は社会の為にやってるわけじゃないぞと。

三田村 うーん、無いんですけど・・・

福本 でもそれが、批判であろうが矛盾であろうが、何かやってることがそれこそ見ている人に何かをもたらす・・・まあ現代演劇の表現っていうのは―違うって言われるかもわからんけど、例えば今の社会の、世の中或いは個人の壊れ方について表現しているとしたらよ、それを見た人がどう感じるか、ということを持って帰ってもらうものやんか。だからある組織がこういう矛盾を抱えてて、こんな人が組織にいて戦っている人も俺はどうでもええわと思っている人もおる、ような芝居があったとしたら、それを観た人がどう思うか、やと思うねんけど、でもまずは表現というものをどう・・・社会というものを映し出していくというか、自分が社会をどう伝えていくか、そこになるんちゃうかな、突き詰めていけば。
だから小屋でもそう。どれだけ演劇不動産業でありながら(笑)、単にそうじゃないハコとして存在していくか・何処までそれが出来るか。それは全ての面で。前提の小屋代とか、あるいは劇団さんとのお付き合いの仕方とか、そういうことも含めて、今はどこまで身を削っていけるかということでやっぱり戦っていかざるをいかないような気がしてる。だからこそ表現の現場の人たちとチームになって・・・べったりするって言ってるんじゃないよ、べったりするのはよくないと僕は思ってるんで。チームになりながら、数しか問わん社会と向き合っていくか。
余談やけど、今日ちょうどね、朝日新聞に北村想(註25)さんの寿歌のことが特集で載っていて、そして寿歌を通じて、例えば今被災地で寿歌をやったらみたいなことがコメントで出ていて、とってもいい事を仰ってるんだけど、ちゃんと写真ででかく文化面で出てるんで。ある種1人の演劇人として、今の社会とどう向き合ってはるかということがとても見えてくる文章で読まれるといいと思います。・・・今日は何か、全然ウイングと関係無い話を・・・

三田村 いや、面白いです(笑)

福本 でもほんまにな、ほんまに言いたないけど、経済と向き合わんとどうしようもない(笑)

三田村 90年代という時代を通っているからこそ、今強くそう思われるのかもしれませんよね。

福本 90年代もそれなりに向き合って酒飲んでたけどなあ(笑)

三田村 90年代は動員自体はもの凄かったんですか?

福本 いや、劇団によってばらばらでしたね。今ね、おかげさまでウイングも長いことやってるからかもしれへんけど、お客さん割と入っているよね。まあそら200人入ることはまずないけれど平均したら・・・そう思いません寺岡さん?

寺岡 劇団同士は90年代の方が見ていたと思う。今は本当に自分のお友達のところしか見に行っていないんちゃうかな。

三田村 では、昔は全く知らないところでも見に行ってみる、という感じがあったんですか。

寺岡 だから、ここちょっと有名やから行ってみようかなとかっていうのがあったかな。だから今は凄くやる側もオタク化しているような感じはする。後例えば10人以上の劇団―そういうのが劇団と言われていた気がすると言うか。

三田村 今はもう1人劇団とかありますからね、平均3、4人くらい、それが普通と言うか。

寺岡 昨日サカイ君と喋っていてね、サカイヒロト(註26)君。彼もクロムモリブデンやったから。いやー、昔は同じ劇団で嫌いから喋れなかった奴とかいましたよねーって(笑)。今は34人やから仲悪かったら一緒にやってけないよって(笑)。在り様もだいぶ変わっているような気がするよ。

三田村 じゃあ、90年代の劇団の人数は2桁くらいが普通なんでしょうか。

寺岡 ・・・もあるし2桁に近いところで。劇団としてのプライドもあったような気がする。客演を呼ぶということはどうなんだ、とか。

福本 アイツ嫌いやとか劇団同士でもあったやろしな。よりとんがってはったね皆ね。

三田村 90年代でウイングが育てた・育った劇団はどれくらいあるのでしょうか。

福本 色々いてはるね。

寺岡 でも筆頭は太陽族ちゃいますか。

福本 岩崎さんとか深津さんとか、蟷螂さん(註27)とか。dracom(註28もそうやし。若い人たちにもこれから出てきて欲しいなと思って、寺岡なんかが今色んな企画をやって若い劇団を応援してやってるんですけれども。勿論、土橋君(註29)や竹内君(註30)だって10年前やけれども学生でここでやったわけやし、幾つかいるよ。まあ大竹野さん(註31)たちもね、ここで随分犬の事ム所の時に2回やってくれて、その後くじら企画って独立してからカラビンカとうちと。ゼロが無くなったこともあって、公演するいうたらたまにアイホールもやってはったけれど、アイホール・芸創・ウイングっていうゾーンでやっていて、最後は途中で亡くなられたけれども、賞を取って頂いた作品も含めて、お互いここで楽しくやろうということだったし、その意味で90年代は流星倶楽部もそうやし、深津さんなんかも、岩崎さんも、中島陸郎がいたから来てくれた人やし・・・

三田村 では岩崎さんも深津さんも中島さんが来い、来いよ、と?

福本 うん、岩崎さんもオープンした時からのお付き合いなんやけど、憩いの果実って言う作品やったんやけどね、その作品の時から来てもらってそれが92年の6月か、その時から、岩崎さんまだ29ぐらいやったと思うわ。ここでレ・ボリューションもやってもらったし。それで、大きなところも小さなところも行きはるようになったわけやし。深津さんなんかは、誰も知らない桃園会という劇団を、中島がDMが来たから京都行くついでに同志社の新町別館に見に行って。この劇団知らんでしょと言われて、知りませんて。僕ちょっと京都に泊りがけで行くから、ついでにDM来たところは見てきますと。新町別館は当時中島がマキノノゾミ(註32)さんとかを若い時に見ていた三劇の関係のハコやから、行って来ますって行って、引っ張り出してきた(笑)。で、ウイングでやりませんかって言ってウイングでやった。鈴江さんは暫く八時半と言う劇団を休止させてて、会ってここに連れてきたわけやし、蟷螂さんもリリパットアーミーに一時所属していたけど離れると言うことになって、PM/飛ぶ教室っていう劇団を作ったときに来てくれはって3、4回ここでやって。佳作と大賞を取りはった作品をやってもらって。

■ 90年代総括・そしてウイングフィールドのこれから

福本 小屋としたら、今はもう本当に拠点なるものが無いかもしれない。
僕はあると思ってるねん。アイホールとか。今はある意味そうやと思ってるねん。中々この先厳しいやろうけど、なりうると思ってる、なってもらってると思ってるんやけどその役は。で、そのゾーンの中にウイングは入ってると思ってるねん。アイホールさんでやって大抵ウイングでやって、精華があった時代は精華でやって・・・トライアングルが出来てたやんか、その中でウイングだけがとてもやないけど王様には成れないハコなんで、拠点では無いので、チョイスしてもらえる、そして小さいけれども、主演男優賞は取れなくても助演男優賞ぐらいで・・・いつも支えてますよ、みたいな。
僕自身はそういう意味で―本音を言えばウイングは、この船はでかい戦艦ではないと思ってるんで。駆逐艦みたいなものなんで、潜水艦、小さい船なんで。大きな船では出来ないことをやっている拠点やとは思ってるねん。小いちゃな拠点やと思ってる。やけど、それを自分から自慢して、うち拠点ですとはよう言えない・言わないし(笑)、拠点て言うのは恐らく皆のイメージするある程度の規模があって、プロデューサーがいて、ということだろうと思う。館長に演劇に理解ある人がいて、財政的にもある程度劇団を支援できるということが揃って始めて拠点と言うことが出来ると思うんやけど、それから言うたらウイングは出来ないけれども、だから野戦病院であったり、小さな船であったりと思ってるんやけれども、その分、大きなハコでは出来ないことを僕らはやりたいし、劇団さんにも正にやって欲しいと思ってるし、今恐らく来てくれている劇団の殆どは、普段出来ないことを―この前の内藤さんの七人の部長なんかはその典型な訳で、言ったら南河内万歳一座としたら色んな条件でウイングでは出来へんけれど内藤裕敬単体で、友達を呼んできてやりましたってことじゃないですか。で、空の驛舎さんも桃園会さんもそうやし、今の太陽族さんもそうやけど、アイホールさんでやる時とまた違った色の芝居をここで作りますよってことでしょ。それはつまりウイングって色を認めて下さっているからやと思うし、そういう色のウイングは小っちゃな拠点として、大きなハコでは出来へんことをやりまっせと。で、うちで出来へんことをどうぞアイホールさんでやって下さいとか、どこそこでやって下さいと思ってるし。そういうチョイスの中に残れて独自色として、他所でやれないことをうちで思いっきりやって下さいっていう・・・それやと思うんねんけどな。そういうつながりと言うか、やっぱりこれからも作って行きたいなと思って。

三田村 そうですね。若い世代の人たちの間とも・・・

福本 ベテラン・中堅の人たちとも、そうしてずっとお付き合いさせてもらってるんやから、そういう絆というか―絆なんてね、しんどい言葉やから、行政が使いそうやから・・・まあまあまあ、何でもいいさ(笑)

三田村 最後に、90年代に印象深かったこと・振り返って何かあればお願いしたいのですが。

福本 一言で集約すれば、大阪小劇場・関西小劇場にとって凄く恵まれていた時代だと思う。今でもあるけど京都にアトリエ劇研・当時無門館というのが存在していて遠藤寿美子(註33)さんがばりばりやってはったわけやし。その意味で言えば関西、特に大阪にとっては90年代は恵まれた時代だったと思う。たくさん、恐竜からちっちゃな哺乳動物まで(笑)・・・今は何か氷河期で動物も生き難くなっているから。

三田村 群雄割拠みたいな感じだったんでしょうか。

福本 そうやね、野外劇、今残っている野外劇も80年代、90年代と・・・だから維新派さんとか犯罪友の会さんとか態変さんもそうやけど、野外で定期的にやってはる方っていうのはまあ7080年・・・70年代くらいから生き残ってるという人たちや無いですか。

寺岡 70年代・60年代はどういう人が演劇をやっていたんですか?不良みたいなやつがやってたんですか?

福本 変な奴がやってたような気がするねん(笑)、武田さん(註34)なんか爽やかな青年やったみたいやで(笑)、松本雄吉(註35)さんは好きなようにやってたよって言ってはったけど、皆かなり・・・だってバンドやってた連中から見たら演劇やってるって、アングラな変なことやってるみたいやでっていう。パフォーマンスとかハプニングって言う言葉が出始めた頃やったんで。それこそ70年代の話やけれど。そんな連中が、何かストーリーの無いものをやっているという。僕らバンドして音楽っていう言葉があってわかりやすいものをしていると、で非常に客に媚びたようなことをやっていると―そうでもなかったけどもまあ、演劇から比べたら遥かにそうさ、上を目指そうという助平根性だけでやってたもんから見ると、変わった奴等やなあと思ってた。未だ天王寺は野音があったから、あの辺で蠢いている人がたくさん阿倍野近辺にいたから。僕もその阿倍野近辺でうろちょろしていた人間の1人だったんやけど。それから観たら随分変な連中だったよ。

寺岡 90年代で演劇が商品化されたっていうことが言えるかも知れないですね。商品になるっていう風に。

福本 まあ俳優さんたちが、特に90年代の劇団さんからマスコミに出だした人がいるじゃない。新感線の人とか。昔は槍魔栗三助と言っていた生瀬(勝久)さんとかその他、佐々木蔵之介とか色々いるやん。そういう人達が単体で―関西の小劇場出身で、勿論東京にもたくさんいはるけれど―そういうチョイスの仕方になって、劇団はそれで損害を多少なりとも受けたかも知れないけれども、生きていけるっていうことを役者が証明し始めた。で、東京では劇作家がマスコミに取り上げられて90年代特に2000年代に入ってからたくさん出てきて。早いのは野田秀樹とか鴻上さんとか。ある種商品になりえるって言うとこなんじゃないかな。だけど、それが末端に来ているかって言うたら、来て無いよね。
・・・だから前、あなたが京都で出している雑誌(註36)で書いていた、打ち上げで酒ばっかり飲んでいてこいつ等いいのかと・・・

三田村 (笑)そういうことじゃないんですけど(※本当です)・・・

福本 や、別にそういうことじゃないと思ってるよ。只単に一回、これで終わらせてしまうのがいいのかって事なんちゃうの。繋がらない・・・

三田村 ええ、つまりそういうことなんです。後個人的な話なんですが・・・最近あまり打ちあがれない時があるんですよ。今回イケてなかったなあと・・・打ちあがっていいいんだろうか?と・・・僕の話はいいんですけど(笑)

福本 それだけな、深まってきたんやと思うねん。ずっと役者として続けてて。だから常に懐疑的に思う、理想と言うのが見えてきたんやな、深みが・・・深みに嵌った人、として(笑)、だって若かったら打ちあがっといたらええやん。

三田村 や、打ちあがるんですけど、何かちょっと・・・

福本 それはやっぱりそれだけ経験積んで、役者っていう精神と身体になってきてるからやと思う。先に行く為の満足しがい度が自分の中で高まってはるんちゃう。そんな気がするな。凄い印象残ってん。普段話せえへんやん。

三田村 そうですね。有難うございます。

福本 で、伊藤君からお話をもらった時に、2人来るんやったら面白そうやなと思って、C.T.T.を今後どうしようという風に思ってはるのか、で、どこまで僕らが役に立ったらいいのかって、この人たちやったら面白そうやなあと思って。まあヨイショも含めて(笑)。
まああんまりお金の話はしたくない(笑)、芸術論だけを言っていれば理想なんですよ、それは。でも、こういう世の中で見たくないものも見ていかないと。生きる為にはそういう毒と言うか、泥の中に入っていかないと。それこそ僕思ってるねん、ミナミというね、泥田んぼの中に蓮も咲くと。蓮っていうのは泥の中に咲いて、泥の中にレンコンというとってもいい食べ物が出来るわけじゃないですか、好きか嫌いかは別として。蓮の花って綺麗な水の中には咲かないでしょう。そういうことやと思うんよ。芸術って言うのは―あんまり芸術芸術言いたくなんやけど、表現っていうのはそういう悪環境の中から―勿論、ピュアな綺麗な環境の中からも芸術は出来てくるけれども、それ以上に生々しいどろどろとしたものの中から生まれてくるものじゃないかな。だからこそ現実も見なあかんし、手の届かないところにあるお釈迦様の世界に(笑)、理想の世界、こうありたいと言う世界にやっぱり志を捨てたらあかんし、僕らはやっぱり泥の中で居て、その泥や池の上に咲いてる蓮の花を目指さなあかんのちゃうかな、ていう気はする。生きていくってそういうことやと思うし。
・・・はい、すいませんつまんないことを喋りました(笑)、次はもうちょっと理想的なことを喋りましょう、今日は敢えてリアルな話をしようと思っていたので(笑)

三田村 いえいえ!ところで次回は2000年代のお話、その次はリアルなお話・これからの話を出来たらといいなと思っています。

福本 しましょう。ちょっと寺岡さんにも喋ってもらっていい?2000年代はあなたと一緒に喋ろう。

寺岡 小劇場の大恐慌時代(笑)、月に2本しか入っていないとか・・・

福本 月に1本も無かったとかね(笑)、ハコとしての話。まあそれも含めて、変わってきた2000年代の演劇とか、新しい世代の話とかも出来ればいいね。

三田村 そうですね。次回も宜しくお願いします。本日は長い時間ありがとうございました。

2011824 NPO法人大阪現代舞台芸術協会(DIVE)事務所にて 聞き手:三田村啓示)

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*注釈* [以下、特に記載の無いものについては主にWEB上の情報からの引用です]

註1・・・195060年代に10代後半からの10年間、前衛演劇集団大阪円型劇場(月光会)でプロデューサーの役割を果たしながら、劇作・演出・研究ノート等の編集に携わる。1970年代後半、阪急ファイブ・オレンジルームの創設に参画した後、プロデューサーとして10年間携わる。その間、現在の関西小劇場の原点ともいえる学生劇団を中心としたオレンジ演劇祭の仕掛け人となり、「劇団新感線」「南河内万歳一座」「劇団太陽族」などを世に送り出す。198485年、文化複合施設・扇町ミュージアムスクエアの基本計画策定にブレーンの一人として参画する。199192年、ウイングフィールドの創設に際して、ハード・ソフト両面で参画。開設後はプロデューサーとして活躍。1994年より個人で大阪市に働きかけを行い、やがて文化振興課(当時)のプロジェクトに参画して、芸術創造館設立、大阪現代演劇祭開催を主導する。1999614日永眠。著書に「阿片とサフラン~演劇プロデューサーという仕事~」、「跫(あしおと)の中から足音」など。(引用先:精華演劇祭 vol.12 DIVE Selection vol.3 参加劇団募集要項 より)

註2・・・略称OMS 。若者文化の発信基地を目指し、倉庫を改造した小劇場「フォーラム」、名画を上映するミニシアター「コロキューム」、雑貨店「souvenir」、カフェレストラン「saloon REPAIR」、ギャラリー「ギルドギャラリー」を備え、近鉄劇場などと共に大阪における演劇文化を支えた施設であった。特に小劇場「フォーラム」は「関西小劇場のメッカ」とも呼ばれる存在で、劇団新感線、南河内万歳一座、リリパット・アーミーなど関西の劇団が活躍。 2003316日をもって18年の歴史を閉じた。

註3・・・大阪・堂島の専門学校地下にある教室を利用して作られた劇場。1988年オープン。ハイスクールプレイフェスティバル(HPF)にも尽力し、若手の育成にも力を入れた。スペースゼロ演劇賞の制定、年1回のプロデュース公演など、この劇場での出会いが集団の母体となっている劇団も多数。2002年閉鎖。

註4・・・関西小劇場演劇の拠点の1つ。自主事業の中心は演劇とダンスで、伊丹想流私塾(戯曲講座)、ダンスワークショップ、フラメンコ教室などの自主講座なども行う。

註5・・・吹田市文化会館、愛称メイシアター。大阪府吹田市にある多目的ホール。演劇など舞台芸術の主催事業も積極的に行っている。

註6・・・大阪市立芸術創造館。1994年より中島陸郎が個人で大阪市に働きかけを始め、公設民営稽古場プロジェクトの民間側の座長格として参画。2000115日、演劇と音楽をメインとした専用練習場施設としてオープン。

註7・・・明治6年に開校し、平成7年に閉校した精華小学校の体育館部分を、客席数約200席の小劇場に改修。大阪市地元の方々と演劇関係者で構成する「精華小劇場活用実行委員会」が運営を担い、「精華演劇祭」をメインイベントに、主に実行委員会のセレクトした催し(主催事業)を行う「拠点」劇場として2004年オープン。しかし一転、07年に大阪市が同小学校跡地を「未利用地」と位置付け処分検討地となり、処分の準備をする為、暫定期間の10年を待たずして 2011年3月31日をもって、閉館。


註9・・・大阪市営地下鉄堺筋線沿線の小劇場が中心となって行われる連携型の演劇祭。一昨年(2009年)にスタートし今年(2011年)で3回目となる。 ちなみに呼びかけ人の代表は福本さんである。詳細は⇒http://muriyari.chicappa.jp/blog/?eid=2

註10・・・大阪府立男女共同参画・青少年センター。財団法人男女共同参画推進財団が運営する施設。愛称はドーンセンター

註11・・・大阪府立青少年会館森之宮プラネットステーション。橋下徹前大阪府知事が掲げる「大阪維新プログラム」の一環で2009630日で廃止。会議室やスタジオ、ホールなどで構成され、プラネットホールでは演劇公演が非常に盛んに行われた。

註12・・・主にインタビュー1回目の終盤を参照。

註13・・・1954年に、近鉄会館として大阪上本町駅南側の上六小劇場跡に建設された。1985年、上本町駅ターミナル整備の一環として、全面的な改装を実施、上六映画劇場は近鉄劇場に、地階の上六地下劇場は近鉄小劇場として、同年103日にオープンした。近鉄劇場は954席を設け、劇団四季やOSK日本歌劇団、ABCミュージカルなどのミュージカルや演劇、コンサートといった公演に使われた。一方、近鉄小劇場は420席を設け、小劇団の公演などが数多く行われた。近鉄劇場、近鉄小劇場とも東京の劇団、上演団体の公演が数多くおこなわれ、大阪に東京演劇の最新動向を伝える役割を果たした。2004年閉鎖。

註14・・・演出家・劇作家、空の驛舎主宰。現伊丹想流私塾マスターコース講師。

註15・・・1983年、大阪造形センターに併設。演劇・舞踏・美術・パフォーマンス・映像・音楽・落語など多分野を横断・接続スペースとしても機能、現代美術からデザイン・生活アート(雑貨etc.)など作品展示/発表の際は「OZC ギャラリー」として開放。2008年、カラビンカ・GalleryからOZC GALLERY+CAFEへ移行。

註16・・・劇作家・演出家。劇団桃園会主宰。1992年桃園会を旗揚げ。1998年「うちやまつり」で岸田國士戯曲賞 受賞。2005年には読売演劇大賞演出賞・作品賞受賞。

註17・・・劇作家、演出家、俳優。1993年「劇団八時半」を結成、2007年1月に活動を休止し同年12月に「office 白ヒ沼」を設立、代表を務める。

註18・・・劇作家・演出家、劇団太陽族主宰。08年より伊丹アイホールディレクターに就任、NPO法人大阪現代舞台芸術協会(DIVE)理事長も務める。

註19・・・http://www.ramo-nakajima.com/ に詳しい。1986年に笑殺軍団リリパットアーミーを旗揚げし、2001年の引退まで作・演出・出演などを務め大阪の演劇界にもゆかりが深く、リスペクトする者は後を絶たない。2004年死去。

註20・・・劇団新感線。1980年、当時の大阪芸術大学舞台芸術学科4回生を中心としたメンバーで旗揚げ。関西学生演劇ブームの中心的存在となる。

註21・・・内藤裕敬。南河内万歳一座・座長。1980年、南河内万歳一座 を 『蛇姫様』(作・唐十郎/演出・内藤裕敬 )で旗揚げ。以降、全作品の作・演出を手がける。

註22・・・1978年、ボウリング場を改修する形で阪急ファイブビル(現HEP FIVE)8階にオープン、当時極めて重要な役割を果たした劇場。当時の阪急ファイブは、若者の最先端のファッション情報基地であり、若者重視の自主企画というコンセプトの元運営され、82年5日間で3700人を動員した「オレンジ演劇祭」はその後の関西小劇場シーンを決定付けたといえる。惑星ピスタチオやそとばこまち、劇団新感線や南河内万歳一座が公演会場として利用していたことで、関西学生演劇ブームのきっかけとなった。 (主な引用先:演劇フリーペーパー「とまる。」2011年春号・連載「京阪神の小劇場史について本気出して考えてみた」坂本秀夫 より )

註23・・・山納洋。1993年大阪ガス入社、1996年から「神戸アートビレッジセンター」、97年から「扇町ミュージアムスクエア(OMS)」担当。20034月より、「扇町インキュベーションプラザ(メビック扇町)」コラボレーションマネージャー。「SINGLES PROJECT」代表。「大阪21世紀協会」、コラボレーションセンターチーフ・プロデューサー。

註24・・・劇作家、演出家。青年団主宰、こまばアゴラ劇場支配人、内閣官房参与、大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授、首都大学東京、日本劇作家協会理事。大阪大学教授就任後は、大阪の文化活動にもかかわっている。

註25・・・劇作家・演出家。1979年、『寿歌』を含む書籍『不・思・議・想・時・記』を、「名古屋プレイガイドジャーナル社」から半自費出版で刊行し、岸田國士戯曲賞候補となり注目される。1984年、『十一人の少年』で第28回岸田國士戯曲賞受賞。1996年より伊丹アイホールの戯曲講座「伊丹想流私塾(いたみ・そりゅうしじゅく)」にて後進の指導、育成にも努める。

註26・・・1993年から97年まで遊気舎に俳優として、1996年から99年までクロムモリブデンに俳優・劇作・演出・美術家として所属。2000年よりパフォーミング・アーツのためのユニットWI'REを企画制作。他劇団作品の美術・映像製作なども行う。2002年、「mju::::zikal」 でOMS戯曲賞大賞受賞。

註27・・・俳優、劇作家。劇団「PM/飛ぶ教室」主宰。1979年劇団犯罪友の会で初舞台。劇団満開座を経て、1989年より中島らもの劇団「笑殺軍団リリパットアーミー」に所属する。1994年、「PM/飛ぶ教室」を旗揚げ。

註28・・・1992年、前身となる劇団ドラマティック・カンパニーが大阪芸術大学の学生を中心に旗揚げ。基本的には年に1回の本公演(=「祭典」)と、同集団内の別ユニットによる小公演を不定期に行う。公式WEBサイト⇒http://dracom-pag.org/

註29・・・AMissing Linkにて作・演出を担当。関係性を重視した丁寧な演出と、知的エンタメ系を自称する脚本に定評がある。 2009、「裏山の犬にでも喰われろ!」 でOMS戯曲賞佳作を受賞

註30・・・劇作家、演出家、俳優。デス電所代表。2006年『音速漂流歌劇団』にて、第13OMS戯曲賞大賞を受賞。

註31・・・劇作家・演出家。1982年犬の事ム所設立、97年散会し同年くじら企画設立。2009年、遊泳中の事故で死去。

註32・・・俳優、劇作家、脚本家。劇団M.O.P主宰(2010年解散)。日本劇作家協会常務理事を務める。

註33・・・演劇プロデューサー 。84年、京都市に劇場「アートスペース無門館」(現・アトリエ劇研)を開設。松田正隆、鈴江俊郎など若い劇作家や役者を発掘し、発表の場として同施設を提供した。91年からは 京都市による芸術文化事業「芸術祭典・京」に演劇部門のプロデューサーとして参加、97年には同イベントで手掛けた『月の岬』(作:松田正隆 演出:平田オリザ)で読売演劇大賞最優秀作品賞を受賞。伝統芸能の海外公演も積極的に行い、2002年にはサントリー地域文化賞を受賞した。2003年死去。

註34・・・武田一度。大阪市出身。1976年劇団「犯罪友の会」結成。主宰、作・演出。近年は春の小劇場公演、秋の野外劇公演というスタイルが定着した。

註35・・・ 1970年維新派を結成。1974年以降のすべての作品で脚本・演出を手がける。独自のスタイル「ヂャンヂャン☆オペラ」を確立。野外にこだわり、近年は、観客とともに旅をする「漂流」シリーズを企画し、奈良の室生寺や離島などで公演を行い話題となる。受賞・海外からの招聘多数。先日、秋の紫綬褒章を受章した。

註36・・・「演劇フリーペーパー とまる。」⇒とまる。企画より2008年より発行されている無料の京都演劇情報誌(季刊)。三田村が大阪の演劇事情についてのコラムを連載中。 本インタビューの注釈の引用・参考元として頻出する坂本秀夫氏による京阪神小劇場史も連載されており必見。

2011年10月11日火曜日

C.T.T. Osaka Trial No.11 開催のお知らせ

C.T.T.大阪事務局試演会 vol.11

【日 時】 
2011年11月29日(火)19:00, 30日(水)19:00
※受付開始、開場は開演の30分前。


【参加団体】
道の階  『それは、満月の夜のことでした』

ふわふわのギター 『もしもし、ここです』
モットーなかよく 『遠雷』

【上演協力金】
950円(予約・当日共通)


【会場】
ウイングフィールド  (
http://www.wing-f.co.jp tel:06-6211-8427)

【予約方法】
観劇希望日、お名前、連絡先を下記メールアドレスにお知らせ下さい。その他問合せも承っております。


メール cttosk@gmail.com
電話 080-3113-1400(ナカシマ)

~~今回の団体のプロフィールと参加理由~~

◎道の階 『それは、満月の夜のことでした』
劇作・演出 久野那美  出演 片桐慎和子
【プロフィール】
2011年9月、この芝居のために久野那美と片桐慎和子のふたりで結成したユニット
。公演が終了すると解散する。
○久野那美:過去の上演歴(劇作・演出)
・「たとえば零れたミルクのように」
・「パノラマビールの夜」(箱の階)
・「海に送った灯」(船の階)
・「ここはどこかの窓のそと」(山羊の階) 他
○片桐慎和子:過去の出演歴
1999年『海に送った灯』(船の階
2000年『ここはどこかの窓のそと』(山羊の階)
2009年『「女中たち」より』(mon)
2009年『4年3組長野さん』(佐野洋子)
2010年『家、世の果ての…』(極東退屈道場+水の会) 他

【C.T.T.で上演をする理由・目的】
上演を決め、台本を作成したところ、台本ができた日の夜に偶然CTTの参加募集

記事を見ました。2日後に締め切りというタイミングでしたので、これは応募しな
くてはと思い、そのまま応募いたしました。さてどこで上演したものか、と考えて
いたところでしたのでちょうどいい機会をいただけて嬉しいです。
制作の労力を省いてとにかく芝居の稽古に集中することのできるCTTのシステム

は素晴らしいと思います。小さくて経験の乏しい集団ほど制作の負担がお芝居を作
ることよりも大きくなり、芝居を作っているのか芝居を作る環境を作っているのか
わからなくなってきがちだと思いますので。
【合評会をどう活用したいか。何を聞いてみたいか】
そこで偶然出会ったひととお芝居についてお話しできる機会と思っています。
参加者は質問される側と思っていたのですが、観客に質問してもいいのですか?
聞いてみたいことは今思いつきませんが、お話しているうちにいろいろ出てくるか

なと思います。聞いてみたいなとその場で思ったことを聞きたいです。

◎ふわふわのギター 『もしもし、ここです』
作・演出 大石 英史  出演 小川 敦子
【プロフィール】
今、ワクワクしている団体。
砂場にスコップとバケツを持って現れた子供の気分。

【C.T.T.で上演をする理由・目的】
私たちは、この団体で次に繋がるきっかけにしたいという思いもあるが、それぞれ

が次に繋がる上演にしたいとも思っている。だからこそ、たくさんの人と出会う機
会やフィードバックのあるC.T.T.で上演したいと思った。
【合評会をどう活用したいか。何を聞いてみたいか】
私たちに興味は持ってもらえたか?
何が面白かったか?
何がつまんなかったか?
何か改善できるところはあるか?
もし全く興味が持てなかったのなら、何に興味を持てなかったのか?
私たちと一緒に何かをしてみたいという人はいるか?


◎モットーなかよく 『遠雷』
作・演出 田中浩之  出演 田中浩之、他一名(未定)
【プロフィール】
京都で活動する Will Be SHOCK Entrance Gate という団体のメンバーである、
田中浩之の個人ユニット。名義を決めて早6か月。活動実績はまだない。
くだらないファンタジー作品を作りたいと考えている。
今回は全く違う鬱屈した作品をしたいと思っている。

【C.T.T.で上演をする理由・目的】
来年度、旗揚げ公演を行いたいと考えておりますが、その前に作品を作る機会を
持てたら、と考えていたところ、こちらの募集を知り応募しました。

【合評会をどう活用したいか。何を聞いてみたいか】
合評会では、単純におもしろいかおもしろくないかが聞きたいです。
特に目新しいことをしようとは思っていませんが、なんらかのスタイルは模索した

いと考えております。






2011年10月8日土曜日

ウイングフィールド代表:福本年雄さんインタビュー①

皆様、大変お待たせ致しました。C.T.T.大阪事務局の新企画・ウイングフィールド代表・福本年雄さんへのロングインタビュー 第1回目です。
まずはウイングフィールドオープン前夜から直後あたりまでを振り返って頂くという事で約70分程度、ほぼノーカットで掲載させて頂きます。
大阪小劇場を長年支え続けている劇場の一つ・ウイングフィールドという場所が、過去の大阪小劇場史の中でどのように機能していたのか、まずはその歴史を知る貴重な資料の一つの始まりになれば、幸いです。若い読者の方の為に注釈もつけております。読み応え有り、是非ご覧下さい。
 ご意見・ご感想等もお待ちしております。(三田村)

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伊藤 本日から、ウイングフィールド代表・福本さんに色々インタビューをさせて頂き、歴史を振り返りながら、関西小劇場というものを一つの視点から考えていければと思います。よろしくお願い致します。ではまず、ウイングフィールドを始められてもう何年になるのでしょうか?

福本 今でちょうど19年、来年で20年です。オープンするために動き出していたのがその前年・前々年ぐらいからだから、準備段階もいれたら21年目になりますね。1990年頃からごそごそと、まあ大阪の小劇場を観て歩いたり、東京へ行って、タイニイアリス(註1)に行ったりいくつかの劇場を観て、それこそ今みたいに各劇場のホームページが無いから、それこそ情報誌とか、演劇雑誌とかを見て載っているような劇場に電話をして、突然お伺いするというような・・・

伊藤 参考にするようなというかたちですよね?

福本 そう、だから大阪でも扇町ミュージアムスクエア(註2)に行ったり、スペースゼロ(註3)に行ったり、あるいは演劇人に話を聞いたり。

■ オープン前夜―バブルの絶頂期

福本 そもそもが、僕は相続があってここを建てて、父親と一番最初の嫁はん、今でも他のところでやってはるんやけど、新劇系の演劇人の奥さんがおったわけ。で、ビルの大家を始めて。そもそも大家さんって暇やねん。テナントさんが入るとか、そういうときの取引とか、例えば電気が消えましたとか、ささいなトラブルとかご用心とかがテナントさんからあったらそれに応対するとか、あとは金額のやりとりをするような仕事なんですね。その前はモータープールをここでやってたんで、だから時間預かりで400、500円とか、そういうお金のやり取りしか知らない人間なんですよ。でビルを建てたのが1987年かな、バブルの絶頂期だったんですね。そういう時ってここらあたりの土地の値段ってのが凄く高くて、一坪5千万て言われてたんですよ。今はその10分の1あるかないかなんだけれども。その頃に借金してビルを建てて、テナントさんを入れるということになると驚く無かれ、例えば1階だと1部屋だけで保証金3千万。僕もびっくりしましたよ、現金じゃなくてね、小切手で1枚3千万て書いてるわけ。紙切れ1枚。私みたいに1時間で500円で車を預かってたモータープール屋の兄ちゃんからしたらこれちょっと嘘やろうという金額なのね。自分の生まれて育った土地がそれだけの値打ちが有るってのが実感が沸かないわけよ。
それでバブルの時代ってのは銀行からお金を借りて、その取引先の銀行がまだお金を貸しますって言うのね。で、もう1件ビルを買ったらどうですかとか、でその土地建物は当然銀行から借金をしたら担保に取るから、そうすると銀行はさらにね―こうして日本は高度成長やバブルを成し遂げた一面でも有るわけやけれども―例えばここを銀行は抵当にとる、もう一軒古いビルを買ったらどうですかと、でまたそのビルを銀行に抵当に入れるわけ、でまたそれで増やしていくわけよ。それでまた家賃が入ってくるから毎月返せると。ビルを買ったらさ、テナントさんがいるわけやんか、その家賃収入で借金は返せると言う計算なんでね。不動産業というのはそういう仕事なわけ。例えばスーパーとかってそういう仕事なんですよ。あの、ダイエーさんとかも典型的なんですけど、まあ例えばAと言うダイエーの店が出来たらそこを担保に入れて次の土地をまた開発するお金を借りて、そこで営業する、でそこで営業した分を、借金した分は、売り上げから銀行に入っていく、そうしてどんどん広げていく、借金をしながら、事実上借金経営やねんけど、収益があがるもんやからどんどんお金を貸してくれる。昔はそういう時代やったんです。銀行はそうしてどんどん金利が入ってくるから、儲かるわけね、そうしてまた入ってきた金利を別のところに生かすって言う金融業、金貸しやから平たく言えば。だから大きな企業から我々のような街の1庶民に至るまで、もうそうしてなんぼでもお金を貸します、まあ土地の値打ちもそれだけ有ると見なされていたから、保証金が入ってくる、それが例えば1軒で3千万とかもう一軒で1千万とかになってくる、そうするとね、この5階までがテナント、6階のウイングが住んでいたところやったから、5階までで合計9千万は私は保証金を預かったわけ。ただしこれは9千万、収入ではあるけれど、出るときに返さなあかんお金ではあるわけね。僕のぼろ儲けではないです。
で、どうするかというと銀行にお金を預けるわけね。で、そうするとそこから金利がでてくるやん。で当時は景気が良いから銀行の金利も高いの。すると40万くらい不労所得として入ってくるの。給料以外。そんな生活半年続けてみ、怖くなってくるよ。夢でね、エレベーターで寝ててね、10階くらいまでね、吹き飛ばされた夢を観た。

伊藤・三田村 ()

福本 だって今まで500円で生きてたもんが、1日あたり3、4万でばんざーい言うて商売してた人間が、一瞬で3千万とかなわけじゃないですか。で、さらにお金貸してあげますって、ビル買えだとか、コンビニやりなはれとか、何かやりたいことありますかとか、それに投資しまっせとか、オーストラリアの牛買いませんかとか、銀行もそういうことを言ってくるわけですよ。土地買いませんかとか。自分に実感のないところへ持ってきてそういうやったことのないことに手を出す仕事について銀行さんから随分言われたけど、父親もいたしね、断ったんですよ。不労所得で生活したことなんてしたこと無いから怖くなってきてね。

■ 劇場への夢

福本 学生時代は音楽をしていたこともあるので、どっちかというとライブハウスなり何かをやりたかってん。自分がやりたいことを出来るような場所。最初の奥さんも舞台をやってる人だったので、稽古場・小さな公演が出来る小劇場空間があったらいいね、半分ライブハウスにしたら何とかなるんじゃないか、まあ不労所得で生活しているよりはかえってストレスが無くて良いんじゃないかと言う話になって、考えて色々そういうのを観て廻りましょうかということになった。90年ごろからごそごそと動き出して、他所の小劇場をリサーチに行って、そこの担当の人に話を聞かせてもらって、やりたいと。その当時僕よりも当時の嫁さんの方が現役で表現者に顔が広かったから、新劇系の演劇人にそういう話をしたんですよ。でもやめときなはれと。まず儲かりまへんと。最初に劇場として建った空間ではないから、今もご存知の通りタッパは低いわけやから、マンションサイズやから。劇場と言うものは、タッパが高くて楽屋がちゃんとあり、設備がちゃんとあるところが劇場と言うのですと。変なところが劇場に成っているような、まあ劇場と言いませんと。当時でも最近のような小劇場なるものがブームになってきてたけど、劇場とはあくまでも設備があるところですと仰るわけですよ。ああそういうことなんやと思って、でもまあ言われりゃ言われるほど何とかしたいなあということを二人で思っていて・・・

伊藤 家を改装してやるというのは最初からの考えですか?別の場所とかではなくて・・・

福本 それはリスクがあるから。他所の場所を借りてテナントで入って、僕が劇場やライブハウスをすると言うことは、さっき言ったようにここを抵当に入れてそのための場所を借りてっていうね、保証金払って家賃払ってっていう、そうするとまず廻らないだろうっていうのはわかっていたから、だったら自分がやりたいことだったら自分が引っ越して、やったほうがわかりやすいんちゃうかなっていう。まあ3人くらいそういうのでやめときなはれという人が出てきたけど、まあ中々諦めがつかなくて。
今でも新宿にタイニイアリスって劇場がありますけれど、前は同じように雑居ビルの4階かな、エレベーターとあとは階段の狭いところで、うちぐらいのスペースで。元はあそこも焼肉屋さんで、今は場所も地下に変わってますけどね、そこで話を聴いて、ああこういう所でも出来るんだなあと思ってたんですよ。で、大阪からも劇団が来てはりますよって、儲からへんけど面白いですよって話を聴いて。大阪では扇町ミュージアムスクエアを見に行って、当時担当してはった米良さんと言う方に話を聞いたり、スペースゼロは古賀さんていう方に話を聞いたり。そこで小劇場なるものは皆さん口をそろえて儲かりませんと、やるのは面白いけれども儲からへんよと、素人がやるんやったら経験もないんやったらやめときなはれと、皆さん口をそろえて言ってはって。それでも諦めがつかなかった。

■ 中島陸郎さんとの出会い

福本 それで、その時の嫁さんが中島陸郎(註4)さんと付き合いがあって知っていたのね。で、中島陸郎さんという人はオレンジルーム(註5)のプロデューサーから一旦引退をして、奈良の障害者の施設でボランティアをしながら自分の回想記を書いていたんですよ。
僕はオレンジルームに1回行ったことはあるけど当然中島さんにお会いしたことは無いし、嫁さんが面白い人だというから、ちょうど回想記(「阿片とサフラン」)が出版された直後で、出版記念パーティーの案内が嫁さんの方へ来ていたらしいのよ。彼女は仕事が合って行かなかったんやけども、なんだったら中島陸郎さんは知っているし、時々大阪にも出てきてはるみたいやから、1回人づてに連絡を取って会ってみないかと言われて、出版記念パーティーがあったのも聞いてるからその版元へ電話をして、阿片とサフランを送ってもらって読んでいたら、難しい文章だけど面白そうな人で興味をもったんですよ。で1回会ってみようと言う事になって。それで嫁さんの方がオープン年の前の夏ごろから中島陸郎さんのところに電話をして、連絡を取って、2回くらい2人で会っていたらしいんやけど、で中島さんがそんな人がおるんやったら会ってみるって言ってくれはったらしいんやけど、ただお互い見ず知らずやから、共通の知り合いと言うことで、当時の嫁さんが会ったわけね、で旦那がそんなことを思ってるけどどうですやろということで、で2回会ったときに中島さんが、その旦那なる人に会ってみようということになって。で、91年のお盆明けごろに、始めて中島陸郎さんとお目にかかって、実はこういう暮らしをしているんだけれども、ライブハウスなり小劇場なりを作ってみたいと思ってますと言う話をしたんです。
ちょっと話は前後するんだけど、僕もバンドやっていたんだけど、今バンドの稽古場はあっちこっちにあるけれど私らの頃は殆ど無かった。で友達の車とか、レンタカーを借りてバンドのセットを運んで、友達の家で稽古したり、たまにある稽古場、スタジオにお金を払ってやっててんけど、大抵のスタジオはアコースティック専用なんで、電気が入ると外に音が漏れて怒られるのね、まして友達の家なんかで稽古してるとやかましいだけなんで・・・

伊藤 今はスタジオなんて音をがっちり遮断してますけれど・・・

福本 昔はあまりなかってん。私の知っている限り、阿倍野に今でもアポロビルっていう雑居ビルがあるんやけど、アポロ三木っていうここぐらいのスタジオが、唯一ちゃんと防音もしてあって、他にもあったんかもしれないけどそこだけやったね。大学の軽音のプレハブ校舎に潜り込んでも防音しているわけやないし。あともう普通の楽器店の上の貸しスタジオみたいな所とか、音が大きいと近所からクレームが、まして友達や俺のうちで稽古していたら親が怒るとかさ、やっぱり自由に使えるような稽古場が欲しいなと言う話はしていたんですよ。ビートルズでレットイットビーとか言う映画があってスタジオでリハーサルをしているところが流れるけれど、そういうところがあったらいいなとか言ってたんですよ。
そんな話に加えて、ライブハウスと、小劇場の演劇ができれば面白いなと言うことをお話して、さらに2回ぐらい会ってるうちに、中島さんも興味を持ってくださって。中島さんも(福本が)素人やから最初は迷ってはってん、当然初対面の、まして怪しいビル屋のおっさん、馬鹿息子に出来るのかと思ってはったと思う。でも2、3回喋ってるうちに意気投合しましてな、それで、じゃやりましょうかと中島さんが言ってくれたわけ。でもそのときの条件として2つあって、私がプロデューサーに就任したら、主に小劇場演劇畑の人間だから、小劇場演劇が90%くらいになるかもしれませんよと。もちろん回していかなあかんから、他のものも入れたらいいと思うけど、まず自分のコネクションで、演劇を中心に回すことになりますがそれでもいいですかと。それと同時に派生した条件なんやけど、プロデューサーと言う肩書きをもらえるんなら僕が責任を持ってやりますと。だから給料もちゃんとお支払いしたわけやけど―高額な、片手に近いくらいのね、段々上がったんやけど。じゃあまあそれでお願いします、ということで91年の9月初めくらいからそんな話をし始めた。

■ 平田オリザ氏と会う

福本 まあ中島さんは色々知ってはるから、もう一度中島陸郎さんと僕で一緒に行きましょうと、2人で東京のいくつかの小劇場を観て、その時にまだそんなに知られてなかったアゴラ(註6)に行った。そこでまだ当時東京でも一部の人しか知らなかった平田オリザ(註7)さんに会って。タイニイアリスのオーナーの丹羽さんが、お会いしたときに面白い男がおるから僕から電話しとくから行ったらって、それが平田さんやってん。お父さんが演劇人で、その息子で、あんたと同じように自宅を改造して劇場をやってるんやと。只ちょっとトラブルが起こってるみたいやからその話もしてきたら?って。それで駒場に行って平田さんにお会いして、で東京は大阪よりも消防法が厳しいから、脱出口のところの、ドアの幅が狭いから、それを消防署から法令どおり広くしろと指摘されたと、まあ平田さんは言われて悔しいから、やめようと思わずにさらに銀行に借金をして広げて文句を言われないような形にしますと、で、これが今のアゴラなんですと言うかたちで見せてもらった。劇場と稽古場と宿泊施設と。その時、やられた!と思ってん。出来れば僕もシャワーや宿泊施設があったらいいなと思っていたけど残念ながらうちは6階だけやん、平田さんのところは1階はテナントだけど最初から劇場を包括した形でビルを建ててはるやん、僕の場合は思いつきで劇場を乗っけただけやん、全く逆やん。やられたと思ってん、こんな偉い、凄い奴おるねんなと、で、平田さんと別れた後、中島さんにやる気を無くしましたか?と聞かれた。で私はますますやる気が出てきましたわと。
その頃から平田さんが言ってくれたんはね、当時から劇団のリストと同じくらいマスコミのリストを作ってたんやね。マスコミが大事やから、自分達のやろうとしていることを情宣する為に関東一円の雑誌・新聞・放送局、メディアのリストというものを作って安く販売してますと。そういうところも非常に戦略的に優れた、まあそれも演劇人のお父さんから教育された、こんなこと出来る奴おるねんなと。で中島さんと帰りに、もう一つ二つ観たんだけども、まあ中島さんもコネクションを持っているから、中島さん曰くお金で売るんじゃなくて、情報やから、我々が関西で、知っておくべきメディア・演劇人のリストは創ろうと。ただそれを知りたかったら―まあそのころって20年前やからね、まあ殆どがコピーとFAXが一番やんか。でも、もし若い劇団でそういうことを知りたかったらウイングまで来て、ただで見せるから自分で手書きで写して帰れと。うちはそういうシステムをとろうと。情報をやり取りする、と言うやりかたも大事やけれど、そういうことを知りたいと思ったら、昔の図書館と同じように小屋に来て、見たいと思った人が自分で手書きで写して帰るっていうことをしたらどうかと。今で言うアナログ的な発想だけどそういうことをしたり。

■ ウイングフィールド始動

福本 ウイングを始めるについて、ここをどう劇場空間として形作っていくかと言うところで、中島さんの取ったやり方は―最初から中島さんは出来るって言ってくれた唯一の人だったんで、タッパが無くても、場所があれば出来ますと最初に言った人なんで―まず、オープンするときに大きな花火を上げましょうと。出来るだけ当時の大阪の小劇場を代表するチームを呼んでロングランをやりましょう。でその後も自分のコネクションでオレンジルーム時代から付き合った人、オレンジルーム時代に学生だった人たちで、オレンジルームを引退したあとあまり付き合いが無かった才能の、可能性のある演劇人、それを中心に、もう一つの路線はベテランの演劇人を呼びましょうと、そういうことでオープンのプログラムとして中島さんが交渉してくれたのが南河内「番外」一座やったんですよ。
内藤(註8)さんはオレンジルームで中島さんが見出した人で、万歳はあの当時ちょうど10周年だったので休んではってん。内藤さんは今年も休んではるけど10周年ごとに万歳て休団しはるねん。ちょうど10周年で休んではって、青木さんちの奥さんて作品をもって番外一座と言う名前でツアーをしたりし始めてた頃で、青木さんちの奥さんを中島さんが他の劇場でやるより予定だったんだけれども内藤さんとの付き合いで強引と言っていいのかわからんけど、ウイングに持ってきてくれて2週間やりましょうと。当時小劇場がロングランをやることが殆ど無かったらしいのね、今も中々難しいでしょう。で、やりましょうと、話題になるからと。で、当時役者として万歳からは内藤さん、河野洋一郎さんと、当時槍魔栗三助と名乗ってて、その後生瀬勝久に改名された生瀬さんと、MOPのマキノノゾミさん、あともう劇団新感線やめたけどこぐれ修さん、ともうひとりヤスイ君、万歳を辞めていた新人の子が新人の役をして、マキノさんと生瀬さんがそれぞれの仕事で交代する、日替わりで、で、当時としたらええと言われる役者を呼んで話題性を作ろうと。何故ならば誰も知らないオーナーと劇場なわけやから、やっぱり最初の1発目に劇場のやろうとしていること、そして当時もそうやし今も恐らくそうでしょうけど、すでに評価されてるスターを呼ぼう、そしてロングランをやろうと。評価をされていない人をいくら呼んだからって、それが評価の対象に残念ながら無いから、評価されている奴を一発目に呼ぼうと。それが中島さんのオレンジでのノウハウだったと思うし、劇団活動していたころからの蓄積だったと思う。僕がいちばんやりたかったことはこれなんですって、福本さんやらせてくれますか、って仰ってもちろんとOKしたんですけれども、つまり話題性を作ろうと。ウイングフィールドここにありって事を、中島陸郎復活したよということを、アピールする為にでかい花火を上げましょうと言うことでやりました。
その後まだ20代後半だった劇団太陽族の岩崎正裕(註9)さんとか、その当時は狂現舎て言ってはったけれども、今は焚火の事務所の三枝希望(註10)さんとか、第2劇場さんとか、もう劇団としては機能して無いけど関大系の展覧会のAって言う劇団、それからこの間亡くなった大竹野正典(註11)さんとか、今名古屋で新劇の演出したりしてるパノラマアワーっていうところの右来左往さんとか、そういう当時小劇場で中島さんがオレンジルーム時代にお付き合いしたり、或いは出来なかった人で、92年前後ぐらいから評価された人を呼んできた。あともう一つはベテランの、あんまり舞台ではれへんけど田口哲(まちの芝居屋さん) さんとか、関西芸術座の若い人とか、小劇場の当時のベテランや若手を持ち上げてくると同時に、中島さんの知り合いのそういう新劇系の人とか、あるいは知り合いのコンテンポラリーダンスの人を入れてみる、あとはもう今は上方芸能(雑誌)の編集長ではないけども立命館大学の当時教授だった木津川計さんという先生がいましてね、上方芸能の創始者なんだけども、その先生のトークショーとか、所謂若者と大人向けっていうのか、両方をプログラムすることでどっちか一方に特化せずに、大人にも小空間を、演劇を見たり、トークショーを楽しんでもらったりしましょう、もう一つは寺山修司の作品の映画会をやったり・・・

伊藤 実験映画ですか?

福本 ええ、中島さん自身が、寺山さんと若い頃お付き合いがあったので、だから亡くなってから交渉して、映画をここで連日やりましたよ。結構92年当時でもたくさんのお客さんが見に来てくださった。そういうことでウイングフィールドの名前が知られ始めたので、当時わがままセンセーションていう劇団やってたんやけど現ピッコロ劇団の風太郎さんとか、流星倶楽部さんとかが、どっかから聞いてくれたのか、このウイングでやりたいと言ってくれて。(現ウイングフィールドスタッフの)寺岡さんは92年の9月に流星倶楽部で現れて。今やっている高校演劇もスペースゼロさんとの共催でやりましょう、青田買いもしましょう、ということでね、若い学生さんにコンクールではない、自由なここで賞をあまり決めたりしませんから、自分で学校ごとにエントリーして、その日一日、のりうちで高校の人たちに好きなことをやってもらおうっていう古賀さんの発想に中島さんが共鳴して、オープンから高校演劇をね。
間口をちょっと広めにしてね、出来るだけ色んな世代にここに来てもらえる、そして知ってもらえるようにするって言うのが中島のオープンしたときのポリシーだったんですね。それはやっぱり今思ったら、賢いやり方やったと思う。つまりオープンしたときにロングランやってスターを呼んで、マスコミにも随分情宣して知ってもらう。でその後若い人でこれから育っていくであろう小劇場の人を呼んだり大人を呼んだり、映画もやったり高校演劇までやる、つまり劇場としての雑多な色をつけて間口を広くしようと。
ただし、小屋代は殆どオール提携。ウイングは有限会社にしたんやけど、3年目まで赤字だったらその会社はダメだから、2年目までは赤字でいこうと。出来るだけ貸し小屋料金は立てたけれども、いわゆる提携料金で100%貸します、そして若い演劇人を支援しますというスタンスを示そうと。まあ商売でゆうたら上代はこんだけやけど、20%付きでこれだけになります、実はこれだけにしときまっさ、というのと一緒でやりましょう、2段構えにしましょうと、でお客さんに馴染んでもらって、3年目からは黒字になるように変えて、ぼちぼち貸し館も出てくるやろうから、貸し館もしましょう、ただ何処で貸し館と提携とを分けるか、といった時に、中島がずっとオレンジルーム時代からやり続けていたことで聞いてはると思うけど、自分が大学のキャンパスに出かけて劇団新感線を発掘したように、あらゆる所へ行っておったわけですよ、ゲネ男って自分で名乗ってたぐらいで、ここで公演する芝居はゲネしか見ない人なんです。本番は他所の小屋にいって、例えば当時オレンジルームに行ったり、アイホール(註12)に行ったり、他所の芝居の本番を観て面白かったらウイングでやりませんかっていうようなことをずっとしていたんです。中島がこれは面白いと思った劇団は提携にします、いまいちやと思ったり全然知らないけど貸してくださいと言ってきた劇団は貸し小屋にしますと、で時々台本を読ませてもらったり。完成稿じゃなくても過去の作品でもいいから中島がその劇団のことを知らなかったらどんな劇団なのか、今みたいにビデオがそんなに無いから、台本を読めばその作家の色が大体わかるからっていうので、何作か、気に入った劇団なんかは見せてもらってアドバイスなんかして。
で、誤解されたのは中島はそうやって検閲してるんじゃないか、って言われてね。

■ オープン、そして中島さんとの日々

伊藤 利用者からですか?

福本 うん、つまり中島自身が劇作家であり演出家であるしプロデューサーでもある人だから、聞かれたら意見を言うんですよ。僕のホンどうですか、といわれた時に言うじゃないですか、なら厳しいことも言う人なので、若い子にしてみたら言われて泣いた子もいるのよ、で検閲やと陰口も言われて・・・

伊藤 なるほど・・・

福本 まあそういうこともあったけれど、中島は決して検閲のつもりは無くて、今は簡単に映像が手に入るけれど、知らない劇団を知りたかったって言うのがあってね。自分の独断と偏見やけれども、その作家を面白いと思ったら、見に行けなくても台本読んで面白かったら、いっぺんやってみまへんか、小屋代まけまっせ、っていう話をして。面白くなければ、頑張ってねっていうところだと思うんやけれども、そういうことをしていたね。それもまあ出来るだけ若い人に育って欲しいという気持ちがあった。僕はそれに対して、立場はオーナーやから―まあオーナーとプロデューサーどっちが偉いかっていったらオーナーの方が偉いらしいんやけど僕はそう思って無かったんで、中島陸郎に給料を、学費を払って中島学校に入学したぐらいの気持ち、弟子入りしたので、トイレ掃除辺りからやり始めましてね、まあ一個も覚えへんやつやと思われてたやろうけれども、そういう中島さんのやり方っていうのは一緒にやってて勉強になった・・・

三田村 中島さんはその頃は演劇活動はせずにプロデューサーのみを?

福本 ご本人はまだホンは書きたかったみたいです。何回か先に言いますけど、1人芝居の本は書いてました。あと実は「蘇りて歌はん」というこの間キタモトマサヤ(註13)さんが精華小劇場でなさったあの作品、あれが初演なのですが、実はウイングでやりたかったんですよ。自分が最後にまだ上演したことが無い作品、幾つか候補があるから一回読んでくれと言われて、やりたかったんだけど現実的な費用の問題などがあって、あえて1人芝居を作ると。ギャラ・執筆料はいらんからその代わり書かせてくれと言って書かれたんですけど、随分自分でもごそごそと書いていて、書けなかった思いを若い人に託したみたいやね。
それでまた次の回くらいの話になるんやけど、3年目ぐらいから赤字を黒字に転換する―うまいこと黒字になったんですけど、そのときに登場して来はったのが、PM/飛ぶ教室の蟷螂襲(註14)さんとか、何年かブランクがあって復活した鈴江俊郎(註15)さんとか、それから深津篤史(註16)さんを京都から大阪に引っ張ってきて「beside paradise lost」で大阪デビューしたとか、そういうことで次の2、3年にまた繋がっていくんですけど・・・まあなんかまとまりの無い話で・・・

三田村 ちなみに、ウイングの出来る前の大阪の小劇場の雰囲気はどういうものだったんでしょう?

福本 ミュージアムスクエアがある、アイホールがある、ゼロがある、カラビンカ(註17)があるというのは、名前ぐらいは知っていましたよ。カラビンカはウイングが出来てから行ったんですけど、あのね、知っていたらやらなかったと思う。僕ね、中島さんに言われたんやけど、お前が演劇人やったらやってないやろうって。

伊藤 では、ある意味充実しているとまではいいませんですけど、ある程度他の劇場があった中で福本さんが・・・

福本 中島さんと一緒に無謀に殴りこみに行ったようなもんですよ。だから当時としたら近鉄劇場・近鉄小劇場(註18)もアイホールもあるしミュージアムもあるしピッコロもあるし、カラビンカもゼロもそのほかにもある中で、無理矢理ドン・キホーテみたいに突撃した()、まあ中島陸郎という看板があったから、やと思いますけどね、オレンジやってはったわけやし。

三田村 オレンジもまだあったことはあったんですか?

福本 うん、中島さんはもうオレンジの人じゃ無かったんやけど。

伊藤 福本さんが中島さんにすごく思い入れがあると同時に中島さんも福本さんに何か感ずるモノがあったと思うんですけど・・

福本 面白いからやと思う。何も演劇のことを何も知らなかったからやと思う。

伊藤 こいつ知らんな、という感じで?

福本 そう、観たことはあっても知りませんって言ったから。昔大阪労演てあって、月例鑑賞で東京の新劇がよく来てたんやけど、まあ若くても加藤健一とか、じいちゃんばあちゃんの芝居やったけどそれでいいのを観たことはあったしね。あとそこの島之内小劇場(註19)に新劇プロメテっていうのがあって、オリジナルもやったり唐さんをやったり寺山さんもしたりしてたんで、新劇としては割合に新しい方の劇団さん。もう1人ハマザキマンという大阪のテレビで悪役ばかりしていたおっさんが、審判っていう3時間ぐらいかかる1人芝居をやったりして、それを観に行ってただけで、演劇は観たことはあるけど中身は何も知らんから、やりやすかったと思うねん。で、もうからへんでもようやると、面白がってたくれはってんね。
本当はね、中島さんはその時別の劇場からオファーが来てたんです。今でもある県立劇場から。でもね、色々と随分考えられて辞められて。何も知らないしかも個人経営の私と一緒にやったっていう中島さんが偉かったんやと思うよ。 普通、給料が安定しててほぼ公務員状態で、将来は館長の方に行くでしょう。中島陸郎ってすでにオレンジルームで名を遂げた人だったらからね。まあ独りやったということもあんのかもしれへんけど()、普通は最後の自分の円熟を仕上げようと思うんやったら、人間として安定したそっちの方を選択されると思う。だけど、中島陸郎さんていうのは常に、そうして当時無名だった若者達を引っ張り出してくるだけの勇気があったというか、本人に言わせると反骨心なんやけどね、だからだと思うんですけども、何にも知らない個人経営のところにいった方が自分の思う通り出来るし、それが中島さんの偉いところやと思う、よく思い切っていただけたなと。やっぱりそれでも流石に悩まれたみたいやけどね。僕のやろうとしていることが彼にわかってもらえるだろうかとか、或いは何年間か演劇から離れた人間が、別の人間を巻き込むのはどういうことなのかということまで考えてはった―最近中島さんのメモというか、日記を見せてもらう機会があって。そこでちょうどウイングで私と出会って、いよいよやろうかと、中島さんが私にGOと、一緒にやろうと言ってくれた前々日ぐらいの時のを読ませてもらったら、そういうことが書いてあったんです。だから、中島さん自身もそういうことであれだけ名を成したというか、出来た人でも悩んではったんやなあと思って、改めてね、すごく心洗われましたけどね。偉かったんだと思う。普通せんやろ?

伊藤 ()そうですね・・・

福本 そこがまあ、僕は小劇場の人はそういうことだろうなと思ってんねん。

伊藤 92年にオープンされたんですよね?

福本 はい、92年の3月にオープンしました。でね、ウイングはオープンが実はややこしいいねん。というのは3月の27日から、4月の半ばまでは青木さんちの奥さんで、後で正確な日にちは申し上げます、3/27-31あたりまでのオープンプレイベントとしてそのロングランがあって、正式には4月1日からなんですよ。公式に言えば1992年4月1日がオープンの日なんですが、実際はそのプレイベントとしてすでに4日間ぐらい青木さんちの奥さんをやっていて、その前にトークショーをやったんですね。「現代演劇は衰退に向かっているのか?」って言うネーミングで。

伊藤 オープンにそのタイトルって言うのが面白い()

福本 菊川徳之助(註20)さんと、中島陸郎と、小堀純(註21)さんと、それからある方がドタキャンされて、内藤(裕敬)さん。だから4人かな。その4人で「現代演劇は衰退に向かっているのか?」って言うトークショーをオープン記念にしました。

三田村 (「現代演劇は衰退に向かっているのか?」というタイトルが付けられるような)そんな空気が当時あったんですか?

福本 いや、中島陸郎というか私もそうやけど、常に危機は持っていないとっていうのはあるね。これでいいっていうことは無いじゃない。
中島さんて、戯曲を読まれたらその人となりがわかってもらえるかもしれないけれど、戦前生まれでしょ、で太平洋戦争で日本が負けて、価値観が変わったときに思春期だった人でしょ、ああいう世代の人って独特なんよね。今まで信じてきたものががらんと変わる経験を人生の中でしているから、その後も色んな経験をしているから、これで良しということはまず無いと。全てのモノは砂上の楼閣に過ぎないということ感じてたみたいね。だからあれだけ演劇が今よりある意味バブルの時期で、扇町に新感線と万歳がいて、って言う時代も危機やって言うてた。このバブルは必ずやばい。常に、同時に危機意識を持っていないと。世の中に安全というのはありませんって。だからね、色んな意味で衰退している・・・言ったら花盛りやからこそ、花盛りは絶頂期やからそれからは下るしかないっていうことの危険性も思っていたみたいね。そういうことは長生きしていたら皆もだんだんとわかってくると思う()

■ 劇場への愛憎

伊藤 その当時で福本さんは大体お幾つでしたか?

福本 僕は39。中島さんは60になっていたのか、ぐらいでした。年は言わへんかったけどね。面白いのはね、中島さんはオープンして3年目に始めて自分の歳を言ってくれたの。それも上方芸能に載っている昭和何年生まれっていうのを、この本貸すから読んどいてって見て、あららって。エッセイが載っていて、そこに昭和何年生まれって書いていて。いつも言うのはね、ハリウッドのスターとかプロデューサーはね、自分の歳を言わないものなんですとかってね。

伊藤 当時福本さんとしてはわくわく感の方が強かったんですか?

福本 怖かったよ()

伊藤 怖かった(笑)・・・無事オープン出来るのか、みたいなことですか・・・

福本 おかげでその嫁さんとは離婚したしなあ()

伊藤 オープン時に離婚・・・したんですか?

福本 そうやねん、あれよ、離婚調停とウイングのオープンと同時並行でやって、昼間は時々家裁へ行き、夜は小屋に入りみたいな、で、中島さんがお前疲れたやろうからはよ家に帰れって・・まあその、そういうことが色々あって、ですよ。やっぱり、今でも怖いよ。けどね、中島さんほど深く考えてる訳じゃないけど、やっぱり色んな面でね、そんなに気にするってね、勿論楽しいし人と出会うこともあるわけやし、けどなんだろう、ある種の緊張感というか恐怖感というか、勿論事故とか経営状態とかそういうのを一緒くたにしてやけれども、もちろん初日があいて終わるまで大丈夫なのか、まで色んなことを含めて、小屋はあくまでもお客様と表現者が一体となって、その一つの作品を創っていくところやから、そこを支える側の人間としたら、ある種の裏方的な、ベーシックなところでの緊張感というか、そこはまあ楽しみやねんけどね、も、ある。
中村賢司(註22)さんと話してた時にね、賢司さんが演劇に対する愛憎ということを言ってはって、いやー、僕も小屋に対する愛憎あるねんって言うと、そうでしょ、どっちかに傾くことはないですよって賢司さんに言われて、なるほどなあって思って。やっぱり、ええ加減にしたいなって思うときもあるのよそりゃあ。しんどいと思うときもあるさ、だからやっぱりそれも含めて愛憎やね。愛だけでは無いし憎しみだけではない、その両方が無い混ぜになったものが小屋の中には僕はあると思ってて、それはもう僕の中にあるものやから小屋に投影してるようなもんやけども・・愛だけでは、ないです()

伊藤 それはもうオープンから愛憎の交じった?

福本 うーん、気付かへんかったけどね。その当時はなんでかわからんけれど、ハイになってやってるから、気付かないけど何年かしてたら愛憎って言葉に気付くようになって、そういうことかなあと思うようになった。やるということはそういうことやと思ったら逆にちょっと楽になったけどね。それまではやっぱり必死やから、憎い方の時は自分のやってることがめちゃくちゃ憎たらしかったり腹立たしかったりもする、楽しくもあるし。

■ ウイングフィールドの由来、そして名言たちなど

伊藤 ウイングフィールドという名前は中島さんが考えられたんですか?

福本 僕はリトルウイングって、ジミ・ヘンドリックスの曲が好きで、ちっちゃいからタイニィ・アリスみたいなもんでね、リトルウイングにしようって思っててん。

伊藤 それは初耳ですね・・・!

福本 それで中島さんに相談したら、綺麗でいいと思うけれど、狭いからもうちょっと広がりがあった方がいいんちゃう?って言ってくれはって。まあコピーライターなんで中島は。それで2、3日してウイングフィールドってどうですか?っていうのを言ってもらって。まあフィールドは言ったら広がりとか、あるいは飛行場の、なんとかフィールドって言う飛行場もあるぐらいやから、草場とか広い空間をイメージする言葉やから、これから表現者が着陸したり発着する場所やから、まあ飛行場のようなもんやから、翼を休めたり広げたり、想像力が飛んでいく場所やからフィールドにしませんか?って、なるほどなあと思って。ほんでまあ中島さんの言うフィールドと、私の言ってたウイングを混ぜて、ウイングフィールド、それとガラスの動物園の・・・

伊藤 そうですね、僕、それだと思ってたんですよ。

福本 ちょっと狂った部分とをね、まぜこぜにして出来た名前です。

三田村 オープン当初はやはり全て中島さん主導で進めていく感じだったんでしょうか?

福本 中島陸郎さんがいてる頃は中島陸郎さん看板よ。成長の遅い奴やろなとは思ってはったんやろけど、まあでも中島は(芸術)創造館(註23)をやることを途中から依頼されたり―常に言ってたのはウイングの倍サイズ(の劇場)がもう一つ必要やと。ミュージアムスクエアがあったにもかかわらず、同じ系列でもう一軒作りたかったみたい。僕はそれだけの財力は無いから、それだったら中島の理想をまわすだけのハコをもう一軒作って、ウイングで出来ないことはそこでやる。そしてバッティングしない方法を考えてみたいっていうのはいつも言ってたね。で時々中島のことが記事に出たりするもんだから、お金持ちの人たち、オーナーさんになりたいって言う人が時々相談に来てはりましたけど、皆そろばん弾くと儲からんから下りて行きはった。ここは野戦病院・実験場だから、本当にもう倍の大きさのあるところで伸び伸びと表現をさせる、疲れたらウイングに戻ってくる、あるいは新人が(ウイングの)もう倍大きいところに行って芝居をやるっていうところを見届けたかったっていうのはあったと。

三田村 野戦病院という例え(註24)は中島さんが仰ったんですか?

福本 うん、そうです。だから表現に傷ついた時に、大きなハコでいつも活躍していて、表現に傷ついた時に自分で自分を癒しなさいと。表現することで癒しなさいと。それが大事やと。原点は小劇場なんだったら所謂商業演劇のような初めから大きなハコでやるんじゃなくて、原点は小さな空間の筈やから、そこから出発すると同時にメンテナンスも必要やと、だから野戦病院ってことやったんやと。

伊藤 名言がいっぱい飛び交ってきましたね。

三田村 野戦病院の例えは僕も聞いたことはあります。

伊藤 僕も聞いたことはあるけど・・・表現をして癒す。ただ休むんじゃなくて表現をして癒す、というのはハッとしました・・・

三田村 中島さんとは演劇論みたいなものは喋ったんでしょうか。

福本 たまにしましたけど、中島さんは話題の広い人でね、政治から思想から経済から酒から女やら音楽やら、どっちかというと酒と音楽と女の話が多かったな。

伊藤・三田村 ()

福本 こいつと演劇の話をしてもまともに何も知りおれへんからしゃあないと思ってはったみたい(笑)、まあでも一緒に例えばある劇団の芝居を観て、その話をしたことはありますよ。
印象に残った話をすれば、例えば1人芝居、随分盛んに若い人はやってらっしゃるけど、中島も1人芝居はよく自分でも書いたし、最後の作品も実際は1人芝居なんですけど、彼は常にモノローグドラマと言ってたんですよ。つまりその1人が舞台上で演技することは、人間の内面の声をさらけ出すことだと。だからある種の狂気なんだと。普通の演劇って言うのは自分以外の他者がいてその人と会話する、あるいはその人と対立することで自分と他者との関係性において成立するけど、1人芝居っていうのはあくまでも自分の心の中のことを吐露することなんだと。夢想も喜びも悲しみも含めて。で、その中島がいた頃から1人芝居は勿論あったわけですから、そのいかにも第三者と話をしているような、そっちの方がむしろ多い1人芝居を観ていて、あれはいかん、とよく言っていたんですよ。あくまでも、どういう他者との関わりがあっても舞台に立っているのは1人だから、その自分の中から湧いてくるものを如何に舞台の上でぶつけるか表現するかその狂気を出すか。僕もそれや、と思っていて。別の1人芝居を観たことも幾つかあるし、僕の一番最初の嫁さんは主に1人芝居をやっていた人だったんで。まあ逆に1人芝居ばかりやっているとアンサンブルが出来なくなるという弊害があるらしい・・・

伊藤 ()

福本 そういう一人芝居の話とかね、如何に表現を削るか、っていうことはよく言ってましたね。劇作家ってのは一旦それを書き出して書き終えた時に読んで、以下にそれを削っていくか、自分の産んだ子の生皮を如何に剥いでいくか、そぎ落としていくかという孤独で残酷な作業なんです。如何に簡潔にモノを言うか、伝えるか、饒舌さは逆にそこから生まれる、それが大事なんだっていうことをよく言ってましたね。かなりそういう意味で私もお芝居を観て影響を受けてる。偏った見方かも知れんけどね・・

伊藤 いえいえ、深く同意できます。

福本 まあそんな話は何回かしたね、後馬鹿話とか。誰が美人かとか・・

伊藤 オープン当初は福本さん自身は、音楽を完全にやめてらっしゃったんですか?大学の頃だけだったんですか?

福本 そう、まあ親が体調を崩したんで大学もやめたんやけど、音楽も卒業しました。

伊藤 元々舞台で歌ってらっしゃったという点で悔しいというか、そういうのはあるんでしょうか。

福本 羨ましい、悔しいというのはあるね、確かに。でも観てていいなと思えるようになってきたんですよ、この頃。まあウイングも1人でやっているわけではなくてしっかりしている人がいて、その人たちに引っ張ってもらって私はその上でわーいって遊んでるようなもんやから、いいかげんなもんなんやけどね(笑)

伊藤 大体オープン前後の話は聞けましたよね。

福本 それといい忘れたことを言っておくと、空間としてこういう場所になったのは、もちろん中島さんが大工さんと専門家を入れないと、一般の工事業者ではいかに使いにくいといえどもこういう普通の家を潰して劇場らしきものにする時にそれなりのことをしておかなあかん、最低限劇場もどきにしておかなあかん、というので、大工さんが今もたまにテレビに出てはる紅萬子さんていう女優さんといっしょにやってた、今は引退してらっしゃるけどアングラの演劇人だったヤマダコウサクさん。で、今劇団大阪新撰組さんが天王寺でアトリエをもってはるんやけど、そこでもくもくっていうアトリエ、もともとがヤマダコウサクさんや秋山シュン太郎さんやらが稽古場にしていたところで、そこも自分で叩いて。ヤマダさんが家が大工さんなんで、その人はオレンジでも出演の経験があって中島さんが親しくしてたので、ヤマダさんに頼んで内装を小劇場らしくとにかく作ってくれと。家が大工さんで演劇のことを知ってる役者さんやからやりやすい。普通の工事業者さんではないから、どうしたらどういう舞台・客席が出来るかとか。だから屋上へいくような梯子段のアイディアとか、ヤマダさんという人のアイディアなんや。他でないことをしとこうと。あと照明もいろんなところでバトンをつったり、大元のところをやってくれたんは、岡田幸博さんていう時々アトリエS-paceに出没してるけど、彼がデザインしてくれたんですよ。そういうね、演劇人がちゃんと手を入れてくれたのでね、使いにくい小屋とは思うんやけど、それをどう実践的な野戦病院に仕上げるかということにおいては良くしてくれはったと思ってます。2ヶ月ほどで突貫工事で出来てん。

三田村 最初の工事以降、追加の工事などはあったんですか?

福本 トイレの位置は全然変わってるし、自分で住んでた頃はセンターの方、上手にあったんやけど。ビルってどこでもそうなんやけど、大体トイレの位置って水周りの関係で各階同じ箇所になってるんでね、だからウイングの共同の5階のトイレの位置があるでしょ、あれと同じ位置に4階も3階もトイレがあるんです。だから6階も同じ位置にトイレやお風呂があったりしたんですけど、それを無理矢理パイプで引っ張ってきたり、舞台面の所が私の寝室やったりね、リビングやったりいろいろあるんやけど、残骸は今殆ど何も無いよ。

伊藤 当時の周りの反響はどうだったんですか?よくぞやった、とか・・・

福本 そういってくれる人もいたけど、ビル屋の不動産屋の怪しい奴に、中島さんだまされてるんちゃうか、って心配した人もいたみたい。中島さんは人がいいから、うまいこといわれて、しかもミナミのさ、こういう場所で、当時は皆貸しビル屋としか知らないじゃない、だからヤクザとちゃうか?と、しかも若いんやったらええけど、40近いおっさんが、中島さんヤクザに騙されてんのちゃうかと、すいませんこのアホでと、でほとんど回りの人は絶対儲かれへんと。でも近所の人も含めて応援してくれる人もいたし、五分五分かな。でも世の中普通そんなもんやと思う。

伊藤 アーティストの方は随分良い反響が返ってきたのでは。

福本 喜んでくれはった人もおるし、こんな狭いところでようやるとも言われた。やっぱり大きなとこを思ってらっしゃる人もおるやないですか。また当時は小劇場双六があって、やがては近鉄劇場という人がいたみたいやから、こんなところが新たに出来たからって何?という人はおったみたいやね。
アーティストの人たちはお世辞もあるんでしょうけど、面白いからやってみたら、せっかくやから、て言って内藤さんにしても、犯友の武田(註25)さんもオープンの時に、赤と黒って言う作品を、ここでオープンした時にやってくれて。俺の野外の百万分の一の大きさがウイングや、ウイングで芝居が出来へんかったら俺は野外で芝居を捨てるとまで言い切ってくれて。明後日から来る内藤さんもどんどんこんな劇場が出来たらいいよと言ってくれて。当時から若い人たちは設備の整った劇場で恵まれてやってるから、自分等が大学ではじめた時のように何も無い場所から物を作るということを知らんのちゃう、ということを内藤さんは言っていて。与えられた場所が当たり前と思ってる奴等が多いから、こういう所で苦労すればいいんですよって言ってて。ありがたかったね。今でもだからそういう人たちの声は覚えていて励みになります。それプラス、あと劇団の数だけ表現をしてくれているわけだから、このやりにくいところで(笑)・・・纏まらない話でごめんなさい。

三田村 では、今日はそんな感じで次回はそれ以降ということで・・・

伊藤 5年目あたりまででしょうか。いい節目があれば。

福本 オープンした後は3周年、5周年とやったわけですよ。余談なんやけど、オープンして3年目くらいでやっと黒字に転換した時にもうやめてええでって(中島さんが)言った事があって。しんどかったら辞めてええよって。5年目も。7年目ももうやめるかぼちぼちと(笑)・・・最後まで心配してました。儲かれへんのに、僕は楽しいけどあんたは一個も楽しいこと無いやろから、オーナーとして厳しいだけやから。辞めんのやったらもうここまで続けたんやったら、辞めて大丈夫やで、もっと現実的になってもいいよと言われたことはあった。何回か。まあそれでも何をゆうてるねんこのおっさんと思って(笑)

三田村 (笑)・・・では、そのあたりまでの話は次回ということにしたいと思います。今日は本当に有難うございました。

2011年7月30日 NPO法人大阪現代舞台芸術協会(DIVE)事務所にて 聞き手:伊藤拓、三田村啓示)

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*注釈* [以下、特に記載の無いものについては主にWEB上の情報からの引用です]

註1・・・新宿で28年の歴史を誇る老舗小劇場 http://www.tinyalice.net/ を参照。

註2・・・略称OMS 。若者文化の発信基地を目指し、倉庫を改造した小劇場「フォーラム」、名画を上映するミニシアター「コロキューム」、雑貨店「souvenir」、カフェレストラン「saloon REPAIR」、ギャラリー「ギルドギャラリー」を備え、近鉄劇場などと共に大阪における演劇文化を支えた施設であった。特に小劇場「フォーラム」は「関西小劇場のメッカ」とも呼ばれる存在で、劇団新感線、南河内万歳一座、リリパット・アーミーなど関西の劇団が活躍。 2003316日をもって18年の歴史を閉じた。

註3・・・大阪・堂島の専門学校地下にある教室を利用して作られた劇場。1988年オープン。ハイスクールプレイフェスティバル(HPF)にも尽力し、若手の育成にも力を入れた。スペースゼロ演劇賞の制定、年1回のプロデュース公演など、この劇場での出会いが集団の母体となっている劇団も多数。2002年閉鎖。

註4・・・195060年代に10代後半からの10年間、前衛演劇集団大阪円型劇場(月光会)でプロデューサーの役割を果たしながら、劇作・演出・研究ノート等の編集に携わる。1970年代後半、阪急ファイブ・オレンジルームの創設に参画した後、プロデューサーとして10年間携わる。その間、現在の関西小劇場の原点ともいえる学生劇団を中心としたオレンジ演劇祭の仕掛け人となり、「劇団新感線」「南河内万歳一座」「劇団太陽族」などを世に送り出す。198485年、文化複合施設・扇町ミュージアムスクエアの基本計画策定にブレーンの一人として参画する。199192年、ウイングフィールドの創設に際して、ハード・ソフト両面で参画。開設後はプロデューサーとして活躍。1994年より個人で大阪市に働きかけを行い、やがて文化振興課(当時)のプロジェクトに参画して、芸術創造館設立、大阪現代演劇祭開催を主導する。1999614日永眠。著書に「阿片とサフラン~演劇プロデューサーという仕事~」「跫(あしおと)の中から足音」など。(引用先:精華演劇祭 vol.12 DIVE Selection vol.3 参加劇団募集要項 より)

註5・・・1978年、ボウリング場を改修する形で阪急ファイブビル(現HEP FIVE)8階にオープン、当時極めて重要な役割を果たした劇場。当時の阪急ファイブは、若者の最先端のファッション情報基地であり、若者重視の自主企画というコンセプトの元運営され、82年5日間で3700人を動員した「オレンジ演劇祭」はその後の関西小劇場シーンを決定付けたといえる。惑星ピスタチオやそとばこまち、劇団新感線や南河内万歳一座が公演会場として利用していたことで、関西学生演劇ブームのきっかけとなった。 (主な引用先:演劇フリーペーパー「とまる。」2011年春号・連載「京阪神の小劇場史について本気出して考えてみた」坂本秀夫 より )

註6・・・こまばアゴラ劇場。東京都目黒区にある小劇場。劇団青年団の主宰である劇作家・演出家の平田オリザがオーナーを務める。

註7・・・劇作家、演出家。青年団主宰、こまばアゴラ劇場支配人内閣官房参与、大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授、首都大学東京、日本劇作家協会理事。 大阪大学教授就任後は、大阪の文化活動にもかかわっている。

註8・・・内藤裕敬。南河内万歳一座・座長。1980年、南河内万歳一座 を 『蛇姫様』(作・唐十郎/演出・内藤裕敬 )で旗揚げ。以降、全作品の作・演出を手がける。

註9・・・劇作家・演出家、劇団太陽族主宰。08年より伊丹アイホールディレクターに就任、NPO法人大阪現代舞台芸術協会(DIVE)理事長も務める。

註10・・・大阪芸大生を中心に「劇団・狂現舎」結成 。98年からは個人プロジェクト・焚火の事務所 で活動、作・演出を務める。

註11・・・劇作家・演出家。1982年犬の事ム所設立、97年散会し同年くじら企画設立。2009年、遊泳中の事故で死去。

註12・・・関西小劇場演劇の拠点の1つ。自主事業の中心は演劇とダンスで、伊丹想流私塾(戯曲講座)、ダンスワークショップ、フラメンコ教室などの自主講座なども行

註13・・・演出家・劇作家・俳優。「遊劇体」主宰。

註14・・・俳優、劇作家。劇団「PM/飛ぶ教室」主宰。1979年劇団犯罪友の会で初舞台。劇団満開座を経て、1989年より中島らもの劇団「笑殺軍団リリパットアーミー」に所属する。1994年、「PM/飛ぶ教室」を旗揚げ。

註15・・・劇作家、演出家、俳優。1993年「劇団八時半」を結成、2007年1月に活動を休止し同年12月に「office 白ヒ沼」を設立、代表を務める。

註16・・・劇作家・演出家。劇団桃園会主宰。1992年桃園会を旗揚げ。 2005年には読売演劇大賞演出賞・作品賞受賞。

註17・・・1983年、大阪造形センターに併設。演劇・舞踏・美術・パフォーマンス・映像・音楽・落語など多分野を横断・接続スペースとしても機能、現代美術からデザイン・生活アート(雑貨etc.)など作品展示/発表の際は「OZC ギャラリー」として開放。2008年、カラビンカ・GalleryからOZC GALLERY+CAFEへ移行。

註18・・・1954年に、近鉄会館として大阪上本町駅南側の上六小劇場跡に建設された。1985年、上本町駅ターミナル整備の一環として、全面的な改装を実施、上六映画劇場は近鉄劇場に、地階の上六地下劇場は近鉄小劇場として、同年103日にオープンした。近鉄劇場は954席を設け、劇団四季やOSK日本歌劇団、ABCミュージカルなどのミュージカルや演劇、コンサートといった公演に使われた。一方、近鉄小劇場は420席を設け、小劇団の公演などが数多く行われた。近鉄劇場、近鉄小劇場とも東京の劇団、上演団体の公演が数多くおこなわれ、大阪に東京演劇の最新動向を伝える役割を果たした。2004年閉鎖。

註19・・・大阪東心斎橋の島之内教会の牧師・西原明が海外留学の経験から、地域文化の発展に寄与するのも宗教の仕事であり、都会の教会だからこそ広く開放しなくてはと、1968年ごろから教会の礼拝堂を劇場として利用し始めたものがきっかけらしい。(引用先:演劇フリーペーパー「とまる。」2011年春号・連載「京阪神の小劇場史について本気出して考えてみた」坂本秀夫 より )

註20・・・演出家、俳優、演劇評論。日本演劇学会理事や日本演出者協会関西ブロック長、近畿大学舞台芸術専攻教員も務める。

註2・・・愛知県名古屋市生まれ。現在は主に関西圏で活躍する、編集者、演劇評論家、演劇プロデューサー。プレイガイドジャーナル編集長を経てフリーの編集者、ライター。

註22・・・演出家・劇作家、空の驛舎主宰。現伊丹想流私塾マスターコース講師。

註23・・・大阪市立芸術創造館。1994年より中島陸郎が個人で大阪市に働きかけを始め、公設民営稽古場プロジェクトの民間側の座長格として参画。2000115日、演劇と音楽をメインとした専用練習場施設としてオープン。

註24・・・一説には劇団浮狼舎・神原くみ子さんが中島さんに「野戦病院みたい」と言ったという説もあり(ウイングフィールドさんからのご指摘)。

註25・・・武田一度。大阪市出身。1976年劇団「犯罪友の会」結成。主宰、作・演出。近年は春の小劇場公演、秋の野外劇公演というスタイルが定着した。