2011年11月22日火曜日

ウイングフィールド代表:福本年雄さんインタビュー②


大変お待たせ致しました。C.T.T.大阪事務局の新企画・ウイングフィールド代表・福本年雄さんへのロングインタビュー、第回目です。
ウイングフィールドオープン前夜から直後あたりまでを振り返っていただいた前回に続き、2回目はウイングフィールドスタッフ・寺岡永泰さんと共にざっくりと「1990年代のウイングフィールド」という枠組みの中で語っていただくということで始まりましたが、それに留まらず広く現在の、そしてこれからの大阪小劇場演劇を巡る劇場側の視点から見た状況・展望についても語って頂いた、非常に読み応えのあるものに仕上がっております。今回もほぼノーカットで掲載させて頂きます。 

ご意見・ご感想、ご指摘等ございましたら、是非お願い致します。(三田村)

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三田村 前回は、このウイングフィールドのオープンに至る道のり、そして亡き中島陸郎(註1)さんとの出会いから、オープン直後の話ということでお聞きしたんですけれども、今回はオープンしてからの約10年程度、90年代の話ということでざっくりと聞かせて頂けたらと思います。僕自身、大阪の小劇場の90年代がどういうものだったのか全く知らないので、どのような感じだったのかということを福本さんの目線でお話を聞かせて頂けたらと思います。とりあえず、3年目の黒字までの道のりといいますか、それまでにどういった苦労・出来事があったのかと思いまして・・・

福本 まあ一生懸命というか必死やったね。まあ夢中やね(笑)。だから経営的なことを言えば当初は2年間赤字が続いて、まあ3年目になって若干黒字になりました、程度の数字なんやけどね。普通企業とかになると黒字ですというと何百万、業態にもよるけど何千万、何億っていう立派な金額になると思うけれども、こういう小劇場をしてたら数十万。

三田村 黒が出てもそのあたりの金額になるということですか。

福本 そう、やっぱりここの場合もそうですけれど、家賃を一応払っているわけですよね。母屋ウイングスビルというビルに、有限会社ウイングフィールドっていう6階を経営している会社から―だから自分に自分でお金を払っているわけ。その代わり、見返りとして、会社の目的の中にビルの管理ということも入れているのね。つまりその小劇場全般を経営していくということがメインなんだけれども、まあそこの中には、色んなことが言えるじゃないですか、アーティストの発掘とか、舞台演劇を啓蒙する、広めていくという昔の目的、その中にリアルな話やけど一応ビルの維持管理も引き受けますということが入っているのね。だからビルからの見返りは、ここに名目やけれども、ウイングのホットプレスを見て頂いたらわかるんやけど、ここに広告を入れているでしょ、広告料ということではないけれども、ビルの維持管理をウイングフィールドにしてもらってるということで、毎月20万円以上ビルからウイングフィールドに払われてるのね。それは家賃を払う見返りなんですよ。で、その家賃なるものも、中々実は払えない状態が続いていて(笑)、自分に自分で払うわけやけれど、そんな3万とか5万とかの家賃やないから・・・

三田村 そうですね・・・

福本 一応28万、共益費や光熱費を入れると30万、超える家賃やから、やっぱりそれを毎月払っていくっていうのはかなり厳しい、今でも正直厳しい。まあそうして回していくということをしなくてはならなかったわけですね。今でもそれが続いているわけですけど、それはやっぱりね、一番ベースにあるところなんですよ。経営していくっていう中でね。
一番よく問題になる公立劇場と民間劇場の違いなんですけどね、公立劇場は家賃を払わなくていいじゃないですか。少なくとも。民間は扇町ミュージアムスクエア(註2)があった時代も、スペースゼロ(註3)があった時代も、恵まれてたと言われてる90年代の環境、近鉄劇場もあった、(近鉄)小劇場もあった、みなそれぞれ会社じゃない。株式会社だったり有限会社だったりっていう形態をとっている。或いはスペースゼロの場合は各種学校、家賃そのものは発生しない業態もあるけれども、殆どのところは何らかの形で本体に対する家賃だとか収益とかそういうものはあげなあかん。で、単独の会社であっても、例えば近鉄興業という会社があったとしたら、当然収益をあげなあかん。こんな小さなウイングフィールドも、ウイングスビルもそうなんですけど、ビルとして黒字で収益を上げて税金を払わないかん、借金を返さないかん、ウイングフィールドという小っちゃな有限会社もビルの1テナントとして入ってるわけやから、そこのちゃんと収益を上げて、家賃も含めたものを払っていかなければならない、税金も会社として払っていかなければならない、全てついてくる、これは今でもそうなんよね。逆に公立劇場さんは家賃を払わなくてもいい代わりに企画を立てたり、色々行政の本体と折衝したり、それこそアイホール(註4)さんやメイシアター(註5)さん、芸術創造館(註6)さん、精華小劇場(註7)もそうでしたけど、税金やそういうものを行政単位のハコは払わなくてもいい代わりにその予算を獲得するための様々な動きを館長さんとか、プロデューサーって言われている方とかが行う、常にそういうリアルなものがまずありきなんですよ、残念ながら。これは今でも。で特にこういう風に指定管理者制度(註8)になってきたら成果を上げないと。で、成果っていうのは演劇的な内容の成果ということ以上に、今はどれだけ回転しているかということだよね。

■ 成果主義化の行く末は 

福本 あの、アーティストの人たちにそこまで言うのは酷な話なんですけど、これはリアルな話やから特に若い人に聞いて欲しい話なんやけどね、官民を問わず今は成果主義が全て。どんだけ芸術的に優れたプログラムをやっているかというのを評価するのは、劇評家だったりジャーナリストだったり、メディアの人或いはお客様或いはアーティスト仲間じゃないですか。でも一般社会の人は観てわからへんねん。残念ながらわかる人とわからへん人がおんねんね。何をやってんねんと。一番わかりやすいのはその劇場が何百万儲かりました、公立劇場であったらどれだけ収益を上げましたかとか、或いは近隣の人にしてみたらその劇場に来る人がどれだけその地域に金銭的な貢献をしてくれるとか、買い物をしてくれるとか、一般で言われているようなシャワー効果を与えてくれるのかとか。或いは大阪市でもそうですけれど精華小劇場がどれだけ芸術的に評価を得ようが拠点を目指そうが、それよりも、それは建前の部分で、それ以上に地元が潤ったり地元の人たちに評価されてる或いは全国発信、皆が観て一目瞭然な、わかりやすいアーティストが来ているか、そしてもう一つは劇場がどれだけ回転しているか。精華みたいに演劇祭単位でやっているところは、途中から貸し館になったけれども、その貸し館もどれだけ使われているか。で、或いは地元行事もどれだけ行われているか。つまりそのハコがどれだけ社会的な貢献をしているかなんですよね。で、収益をあげているか。今はここを観られるのね。

三田村 やはり以前よりもそういう見られ方は厳しくなっているということですか?

福本 厳しくなってる。今まで小屋代があまり発生してこなかったような所でも、今後はその―国自体が、今多額の一人頭七百万の借金があると言われているでしょう。赤ちゃんからお年寄りまで。それだけ国がしんどくなっているわけやから、言ったらこれまで投下されてきたような文化や教育、演劇も含めた、心の滋養になるようなものに対する支出も当然減らされてるやん。だから今、助成金という名目で劇団は受け取ってはるけどそれもかなり厳しくなっているでしょう。

三田村 そうですね、うちもたぶんこれ以上取られないだろうな、という空気は感じますし・・・

福本 結局はわかりやすく言ったら去年の事業仕分けとか、国が大変やから削れるところから削っていこう、あとは自助努力をしなさいという方向に転換していっているわけでしょう。だからそれぞれの末端にある公立の劇場、それに準じるような場所、企業の劇場もそうですし、特に公立劇場なんてそうなってきているけれども、どれだけ成果を上げるか、どれだけ回転率を上げるか、と同時にその地域に貢献できているかということを見られてしまう。だから小さな芸術の世界の中だけでいくら評価を高めようとしていても、それではわからん、わかるひとにはわかるけど、わからんひとにはわからんやないかと、ましてこんな厳しい経済状況の中に置かれている日本やから、余計、国にゆとりが無いから、今までやったら素人にわからんことをやってても、芸術やってるんやから、それはいつか国にも社会にもバックしてくるものをもたらすんやから、っていうことで、ある種大目に見ていたところはあったんやろうけど、これだけ国民一人当たり借金があるよと、国自体に借金がありますよと。で、地震が起こってくる、原発騒ぎになってる、となるとますます将来においてたぶん文化は厳しい試練にさらされていくと思う。そのところをやっぱりね、これからアーティストの人たちは若干頭の中に入れながら自分たちにも直接絡んでくることやから、表現をしていく事やと思います。
我々小屋はそうして皆さんにいい表現をしていただく為に、勿論払うものは払い、待ってもらうものは待ってもらってるわけですけども、小屋の努力をわかってくれということではなくて、現実そうなっていて、公立劇場さんも民間も、どれだけ成果を上げるかっていうことに評価が置かれています。むりやり堺筋演劇祭(註9)で公立劇場の方とお話しする機会があるんやけど―今までは何とか来れたけれど、これから企画もので、小屋代を払わんでも何とか予算を獲得してやってこれたものでも、将来どうなるかわからんねえっていう―つまり、若干表現する側からもお金を貰わざるを得ないようなことになる可能性無きにしも非ず、というふうな事を聞いて。或いはそれを避けるためだったら、前提としてその空間・劇場がどの程度収益を上げているか、それを求められている時代だと。ドーンセンター(註10)さんなんかその典型なんですけど、助成金をもの凄く削られてるねんね。

三田村 「もの凄く」削られてるんですか?

福本 らしい。だから貸し館でどれだけ収益を上げるか。今男女共同参画青少年センターって名前になってるでしょう、府立青少年会館(註11)が無くなって、合同であそこで、今まで青少年会館でやっていた機能も引き受けなさいってなっていて。あそこは演劇だけじゃなしに、色んな貸し館として機能しているでしょう?企業さんの勉強会だったり・・・

三田村 1階(パフォーマンススペース)を使っての演劇公演も増えてきていますね。

福本 ああでもして回さないと・・・

三田村 使っていない、と見なされるということですか。

福本 そう、そうすると助成金くれないし、今やってる財団出て行けということにもなる。おまけに黒字を出したらその余剰金は府に納めなさいと。平たく言えば、やくざの言葉を使って言えば、大阪府・親会社が厳しいんやから上納金を出せ、ていう状況になっているわけやね。で、本来の男女共同参画財団がこれまでだったらなんとか助成金というか、運営資金は府から下りていたわけやけれど、がさっとカットされて、自助努力して稼いでくれと。回転させてくれということになってあそこの職員さんは必死になってやってはる。企画して、外に自分達が出て行って、講演して、講演した分もドーンセンターを運営している財団にギャラを入れて、っていう状態。他の公立劇場さんたちだってやっぱり厳しい。これからどう生き残っていくか、今まで余裕でやってたようなところでもどれだげつめていけるか、やっぱり数字で評価されるから・・・というようなことがすごく問われてきている。
それは劇団さんだって同じ事で、助成金が厳しくなってきているから、もう自分達が払って運営していって、何とかしてくれと、例えば公立劇場のプロデューサーさんとか館長さん達に何とかして下さいと頼むやん。そういう場合もあるやん。我々民間のところやったらまけてえやって話になるじゃないですか。当然のことやと思う、劇団にしてみたら。段々そういう風にこれから変わっていくと思うし、助成金を取ろうと思ったら、どれだけわかりやすくて成果の上がる企画を立てていくかというところで。あと、収支の明確性など…。

三田村 企画力が問われるわけですね。

福本 企画力と即効性やねある意味の。答えをどれだけ早く出せるか。だから当初の建前的には成果も上げて、そして同時に研究成果といっていいのか、発表成果といっていいのか、も上げていく。・・・こういう小劇場とか芸術文化なんて、本来そういうものとは別やったはずやん? 

三田村 いや、全くその通りで、好きなことを好きなように・・・

福本 うんうん、そしてそれを観てくれる人に、何らかの観てよかった、いい時間を過ごした、心の滋養というか、栄養を与えることが出来たらそれが成果やったわけやないですか。今はもうそういうことは、あんたら自分で好きなことをやってんのやろ、的な、じゃあ自分で金出してやりいな、っていうことに変わりつつある、段々。

三田村 社会とどうコミットしていくかということを考えなくてはいけない時代になってきたということでしょうか。

福本 シェルター、そういう空間、三田村さんが正に仰った通り、自分達の好きなことをやらしてもらえる、それが周りの人たちに影響を与えていけばいいじゃないか、それが成果ですと言い切れた訳やけど、今はそうじゃなくてもう段々、そんなんやったら自腹でどうぞ好きなところでやってくださいと、好きにやったらええやんていう、お金出して趣味なんやろあんたらと言わんばかりのそういうところに傾きつつある。お金もらうんやったらそれに見合っただけの社会的な意味を作って下さいよっていうことに段々となってくるんじゃないかなあと。
僕はちょっと恐れているところがありましてね、劇団さんにも社会とどう向き合いながら、しかも自分のやりたい表現とどう戦っていくか、ってことなんじゃないかなあ。アーティスト本来は本当に孤独な作業で自分と向き合って表現を作っていくことやったと思う。芸術って言うのは全般的にそういうものでしょう。作家さんが本当に身を削って書いた台詞を役者さんたちがやって、そして役者さんたちも本当にその台詞と向き合って、自分と向き合ってその中から厳しい思い・しんどい思いをして一つの作品を作っていく、それは金銭にはか短期的には変えられなかったもんだと思うのね。

三田村 そうですねえ・・・

福本 まして小劇場だったらそれが直ぐ何百万何千万という収益は上げないし・・・

三田村 金銭を上げたくて・・・そもそもそういうものじゃないという。

福本 だから結局ね、甘いって思われんのよ。お客さんはそこそこ入って欲しいは自分達のしたいことはしたいって、子供の理屈やでそれって、と。

三田村 多分皆そこで、ずっとそういうせめぎあいの中でやっているんじゃないかなあと。

福本 そうなんです。社会の人たちは正にそこに目を付けてきているというか、社会の人というか削ろうとしている人がね。今までやったらあんたら遊ばしといたけれど、これだけきつくなってきたらちょっとは貢献しろよと、その貢献度はなんやといったら数字を上げろと、成果を出せよと、いうことになってきているんじゃないかな。そして企画を作るんだったら、じゃあそれに見合うだけの企画力を持てよと。それは恐らくどこの劇場も公立劇場さんだって、皆さんそこで厳しい思いをしてはるだろうなあと。だからこれから僕らも民間も含めて、これまで以上にどういうことをやっていくのか。
我々民間だったら逆に答えは簡単やねんね。ある収益さえ上げていればそれでええねん。例えば100万円より200万円上げている方がええわけよ、お国にとったら、或いは行政、大阪市や府にとったら、100万円より200万円儲けてる会社の方が税金を払ってくれるわけやから。

■ 劇場と劇団の関わり方

福本 ただ、ただね、僕らのこういう小劇場、お分かりやと思うけれども、ただ貸し館だけで何でもよろしいねん、ということではいかんやん。やっぱりそれは経営している私たちが、ウイングフィールドというものはこういうハコで、こうありたい、それは何だと言われた時に―こんな小さい空間で採算は取りにくいです、だけど、ここを選んできてくれる劇団の人たちに自分のやりたいようなことをやって頂くようにする、で、その実験的なキャパ100以下の空間でより実験的なことをしていただく為に存在する実験空間です、中島陸郎の言葉で言えば、野戦病院(註12)的な劇場です―そのための色はやっぱり出したいなあと。それはやっぱり劇場を、こういう厳しい状況で劇団さんも本当に厳しくなってきてるわけやから、当然お金出して借りる民間劇場って選んでくると思うのね。劇団側は。僕はそう思ってるねん。

三田村 難しいところではあると思うんですけど・・・

福本 民間でやるか公立でやるかっていうまず第一前提があって、じゃ公立劇場で出来なかったら民間劇場でやるということになってきた時に、これだけ様々な空間があったらやっぱり選別してくるね、お客さんである劇団さんが。そうしたらお客さんである劇団さんにどれだけ我々民間劇場がその特色でお迎えできるか。勿論値段のこともあるでしょうし、プラスアルファとしてそこにいるスタッフのこととか、或いは劇場の空間、ハードとしての特色とか、そういうようなこと。だから我々としても、ただ100万円より200万円あげたらいい、それはわかってるねん()、だけど、それ以前にやるべきこととして、せっかく儲かりもせんのにこんなことをやっているとしたらよ、それだけ劇場としての特色を打ち出して、劇団さんというお客様と信頼関係を築いて、選んでいただいて、尚且つやりやすいような条件を一緒に考えていく、それは値段の面も含めてこれからもそうやとおもうし、そういうやっぱり平たい言葉で言うと経営努力やね。そのことをやっぱりしていかないと生き残っていけなくなると思う。これだけ演劇環境自体が厳しくなってきてたら劇団さんも厳しい、そして、国も厳しい()

三田村 皆厳しい(笑)

福本 皆厳しいとなったら、お互いに食い合いになってくるような状態、だったらどこまでその状態を・・・喧嘩するんではなくて、信頼関係という大切な、人と人の、我々演劇人の―私も演劇人と言わせていただくけれども、端くれとして―信頼関係でやってもらってるわけやん、まあウイング行こかと、ウイング行ったらまあ値段はそう安くも無いかわからんけどやりやすいようにやらせてくれると思う人もおるかもしれませんし、あそこの空間が今度の芝居には面白そうやから、やらしてもらおかと思って来てくれはるわけやん。それってやっぱり信頼関係やと思うねん。それを、そこまで思ってもらうということが大事なことやと思うのね、劇場としたら。・・・よう似たハコ幾つかあるやん()、ウイングだけじゃなしに。大きさとか色々な面を含めて。その中で、例えば空の驛舎さんが3回に1回なり、2回に1回なり、毎度ウイングを使って下さるということは、あなたたちメンバーの人たちが、ウイングフィールドというハコに対して信頼をして下さっているということやと思うねん。

三田村 それはその通りです。

福本 ありがたいことやと思う。で、そのありがたさを維持していかな、なんぼ厳しくなったって共生関係、そういう人間関係はやっぱり大事にしていかなあかんことやと思っているんです。それを無くしたら、ほんとに昔それこそ90年代によく使われた言葉だけど演劇不動産っていう・・・

三田村 演劇不動産、ですか?

福本 うん、ハコ貸してるから。言ったら3日間で何十万てあるじゃないですか、不動産業って、貸しビルなんてやったら一番わかりやすいけど、うちでもやってるような、この部屋一つに家賃を払ってもらってるわけやん、つまりその土地という不動産を劇団さんに貸してるわけやん。このウイングフィールドという空間を。で、そこで頂いてるわけ。小屋代。家賃じゃなくて、ウイークリーマンションのようなもんなんで、平たく言えば。だからこれはね、ある劇場のプロデューサーが言った言葉なんやけど、俺等ほんま演劇不動産ですよねって。実際そうなんです。近鉄さんだって扇町さんだってゼロさんだってうちらだって小屋代の発生してるハコは皆実は演劇不動産()、で、その不動産業としての、特色として、それだけじゃない劇場としての特色を出してきはったわけやし、ウイングも及ばずながらウイングという色を出していたわけやし。

■ ウイングフィールドの色

三田村 そのウイングの色というのは、オープン3年ぐらいで福本さん的には固まってきていたのでしょうか。

福本 経営的には厳しいことは100%今に至るけれども、そうやね、3年・5年・・・大体そこへ出てる劇団さんの色も出てくるじゃないですか。そうすると、僕らはそんなに意識して無くてもお客さんととか劇団仲間の人たちが、そういうレッテルというか色で観はるやん。で、僕ら自身もそこで表現される演劇を見ていると、まあどっちかというと実験的なこと、或いは戯曲を大事にしている。エンタメというふうにして100より500、500より1000を目指す劇団は1、2回は公演するけども、すぐ大きい所に行ってしまう。そうなってきたらこの劇場は経営的なこと以上に、そこにかかるプログラムで勝負する。そのプログラムが何かって言ったら、実験的なこと或いは作家主義の劇団さん・実験的な劇団さんに使われる。そこで大体演劇の観客の方も劇団さんも観はるやん。恐らくそこで色がつく。
で、この前も言ったかも知れんけど、中島さんがよくそこで上演する戯曲を、過去の作品を読ませてもらったりしてたのね。応援する意味も含めての為に。で、敷居の高い劇場やとか、検閲されてるとかね、寺岡さんなんか知ってるとかも知れへんけど、この人の流星倶楽部てのも、作家さんの書いたホンを中島が読ませてもらったりね、アドバイスするとか、難しい言葉で言ったら、皮肉をこめて言ったら、検閲やと、どうもウイングは敷居が高いと、あそこのプロデューサーの中島陸郎はホンを検閲してると、ケチつけると、いうような噂が出たんですよ()。だから今でも恐らくそういう色は残ってるかも知れない。割と敷居が高い小屋やと。

三田村 勿論実際はそんなことないですよね?

福本 今僕らは別に賢司さんのとこにも伊藤君のとこにも、岩崎さんのとこにも本出して下さいとは一切言いませんから()

三田村 出せと言われれば出します()

福本 ()そんなことは一切中島陸郎は触れたことは無いんです、ただ興味があるから、折角やってくれるんやったらホン読ましてとか、で、書けないとか言ってきて一度中島さん見てくださいって若い作家さんたちがやって来られたのね。どうも書けないとか、悩みを打ち明けてはってん。そうすると中島もほっとけないから、ホン読ませてもらってアドバイス出来るところはしましょうとか、或いは出来上がった完成稿とか、このウイングでやるホン、過去のホンを読ませてもらって話をしましょう、それは批判するということよりも、まずその劇団の特色を知った上でこのウイングという空間の中でやって頂くにはどうしたらいいかを一緒に考えようとか、或いは他所の劇場で上演するんやけれども、一回中島さん読んでというような人も含めて、それはまあ小屋としての一つのサービスやったんですけどね。プロデューサーとしての中島陸郎という看板がいて、その人を頼って来はる人が多かったから、その中で中島陸郎という看板の存在が当時の若い劇作家さんにとってやっぱり信頼のマークやったんよね。

三田村 ブランドみたいなものですか。

福本 うんうん、だから中島さんがいる小屋でならやってみようとか、或いは中島陸郎さんにホンを読んでもらおうかとか、色々話がしたいとか、ということで来てはったんけれども、それがいつの間にか、全然使ったこと無い人含めてどうもあの小屋敷居高そうやぞと、一々台本持ってこいって言われたら困るやんみたいな(笑)、噂になってたのね、で、そんなにめちゃくちゃ安いか言われたらそうでもないっていうこともあって、敷居が高そうな小屋や、その割りに採算取られへんやないか、100人も入るか入れへんかやから、っていうことになってたんですが、そのことも含めて、僕はやっぱり実験的な空間としての色が、そのあたりで出てたなと思う。それは恐らく今に至ってもついていると思う。

三田村 そうですね。ちなみにプログラムの初期とかは中島さんが引っ張ってきた劇団は勿論、当然全くつながりの無い、ここでやりたいという劇団、貸し館もあったのでしょうか。

福本 うん、でも貸し館というよりは何らかの形でまけてたね。小屋代も含めてね。たまに貸し館も今でもやってますけれども、殆どはやっぱりなんらかの冠は付けてたね。それはまあ劇場としての応援する姿勢、だから協力公演とか提携公演とか、若手劇団応援シリーズとか、今寺岡のやっているウイングカップですとか、昔の再演博とか色んな名前付けてるじゃないですか、それは言ったらそこによって値段のランクとか、内々的な、数字的にいえばそうなんやけど、同時に劇場として劇団さんを応援してますよという証でもあるし、そのことが、リアルなことだけで言えば劇場が劇場として頂くお金のランクになってくることでもある。それはやっぱり儲かる儲からないということと同時に、収益をそれなりに上げていかざるをえないという、それこそ演劇不動産業であるところのぶっちゃけた話や。

三田村 こんなことを言ってしまうのはなんなんですけど―実験的な空間でかつ、収益を上げていかなくてはいけない、というのは凄いジレンマがあって、難しいだろうなと・・・

福本 ()だからこの前1回目に愛憎といったことは、そういうことも含めて。だってそら単純に考えてもうちょっと楽なこともしたいし、もうちょっと空間的な広さがあればそれなりに、と思うときもあるのよね。でも大きな劇場の人と話したことあるけれども、大きな劇場の人に言わせると、大きな劇場になればなるほど苦しみはあると・・・

三田村 ああ、そうですよね・・・

福本 その民間劇場の人と昔話したんやけどね、当時近鉄劇場(註13)のプロデューサーだった方と話したんやけど()、その方が仰ってましたけれど―君の方が楽やよ、俺等みたいなハコになってみ、どれだけ言われるかって。それはそうで苦しみはあったんでしょう。やっぱり企業がやってるということは、収益を、企業の看板を背負ってはるわけやから、ここを単体で黒字をださなあかんわけやから、その部分と1アーティスト、アーティストの味方としての良心とがせめぎあう、で、1番そこで陥りやすいのが魂を商売に売っちゃうことなんですけれどもね・・・

■ そして1990年代・演劇と社会

三田村 3年目で黒字に至ったということは、要は劇場として回りだしたと言うことなんでしょうか。

福本 うんそう、平たく言えば。

三田村 ぎっしり埋まっている感じだったんでしょうか。

福本 あのね、これはウイングがオープンしてからのホットプレスのバックナンバーなんですが、本当に1990年代の後半から1、2年間はもの凄く多かったね。扇町(ミュージアムスクエア)より回転していた。

三田村 へえ・・・凄いですね!

福本 (中村)賢司(註14)さんなんか来はじめて頂いて―まだ来るか来はれへんかの時点ぐらいかもしれへん。ホットプレスはいつでもウイングに置いてるあるので観てもらったらわかりますけど、90年代後半は入ってましたよ。

三田村 その後半というのは具体的には?

福本 つまり、それがオープン5年目とか7年目とか10年目くらいまでの間。軌道に乗ってきたってことなんやろうね。色も見えてきたけれど、逆に1回とりあえずウイングでやっとこうか、(扇町)ミュージアム(スクエア)行く前にウイング行っとこか、みたいな。

三田村 そういう劇場双六の中の一つになったってことなのでしょうか。

福本 うん、そういう演劇双六があっての話でもあるけどね。それはやっぱり時代も良かったし、ファームがあるようなものやんか、1軍があって。スペースゼロさん、カラビンカ(註15)さん、他にも小さな空間があったんですよ。そういうところで実験的なことをやるとか、或いはミュージアム行く前にとりあえずこの辺でやっとこうかと。例えば記者さん、劇評家さんが来はるとかっていうゾーンに入ってたから。それもうちの周りは中島陸郎さんがいたからなんやけどね。とりあえずそのゾーンに入っていた所為もあって、例えば当時、扇町ミュージアムスクエアの企画でアクトトライアル、っていう規模は大きいけどウイングで言うところの若手劇団応援シリーズと同じようなもの、つまり登竜門的なとこがあって、そこで出て評価が上がったらそこの提携公演になれるみたいな、そういうシリーズがあって。

三田村 名前だけは耳にしたことがあります。

福本 そこにノミネートしてもらう為に、まあその中でウイングだけからでは無いんですけど、そのいくつかの中にウイングが入っていて、ここから行った人がわりと多かったね。だからそういう全ての面で環境が良かったんやね。

三田村 そうですね。OMSも近鉄小劇場もありましたし。

福本 他府県にも行きやすかったし―まあ他府県って東京やけど(笑)、まあ色々な面で相乗効果はあった。

三田村 他の劇場もあって全体的に盛り上がっていた感じでしょうか。

福本 今は、現状の(劇場)数だけ言ったら増えてると思ってるねん。2011年と1990年代後半あたりを比べた時に。カフェとかも含めてね。

三田村 (現在は)小さなスペースが増えていて、総体としては多いのだろうなとは思います。

福本 ただ今は演劇双六が無くなった・それを支えていた経済状況が当時は良かったとか、全てそういうところに集約されていくんやろけどね。やっぱりバブル崩壊してもしばらくはまだ余力があったから。90年代後半ぐらいは。

三田村 そうですね、90年代後半はバブルが終わってぎりぎり辺りの頃で。

福本 ちなみに三田村さんなんかは扇町(ミュージアムスクエア)の記憶は持ってはる?その頃は学生だった?

三田村 ええ、僕が小劇場を観始めたのが2000年なんですよ。ぎりぎりOMSで芝居や映画も何本か観ていて―あの柱2本の空間。僕が最後に滑り込んだ世代じゃないかなと思います。

福本 2000年に入って、大きな劇場を支えていた経済状況が厳しくなったから、大阪ガスさんも、近鉄さんも手を引いちゃった訳やんか。ひいてはスペースゼロさんを支えていた専門学校ももっと教室として稼動させたいということでゼロを閉鎖しちゃった。そういう時代性っていうものが今正反対のところに来ているよね。経済状況が厳しいから劇団事情も厳しいし、小屋事情も、ハコがこんだけあってもとっても厳しいから、なんとなく今停滞しているっていう・・・状況になってきているんちゃうかな。

三田村 つまり、90年代は今とまるで逆だったということなんでしょうか?

福本 すごくそれは感じるね。

三田村 あらゆるものが逆になったという。

福本 確かに良かったよ、90年代はその意味で言えば。元気のある劇団も多かったし。まあ賢司さんだったり寺岡君ところだったり深津さん(註16)とこや、鈴江さん(註17・・・つまり岩崎さん(註18)よりちょっと下の人たちが、今40台半ばくらいになりはった、66、7年生まれくらいの人たちが、あのへんの人たちが、第一世代を追いかけてきた。で、元気もあったんよね。場所も恵まれてた。それを支えたのは経済がまだ何とか回っていた、っていう・・・全ての面でその上にわりと乗っかってたんだよね。勿論第一世代―中島らも(註19)さんや新感線(註20)さんや内藤さん(註21)らがいて活性化していた、その活性化していたのは何故かって言ったら、正に経済が良かったからで(笑)

三田村 もう全てにおいて経済(笑)

福本 いや、内藤さんなんかとお話していてもそれはやっぱり感じると言ってはったから。自分達は恵まれていたって。オレンジルーム(註22)はあったし学生時代の時は。そしてその後OMSさんで稽古も持てて、育てられて、で、余力で大阪城ホール行ったり(笑)そっから先はだよ、って言ってはったからもう・・・

寺岡 だって新感線とか万歳とか、まだまだ若い頃に大阪ガスっていう大企業があそこでどうぞって貸したわけやから。

三田村 大阪ガスがですか!・・・

福本 あの建物は大阪ガスのものなんです。ビジネスクリエイトとか色々絡んでたんやけども、まあ言ったら子会社やんか。エンターテイメントを扱ってて今でもやってはるけれども、建物は本体のものやから恐らく。いっぺん山納さん(註23)に確かめてもらったらと思うけれども。やっぱり大企業が支えていたということじゃないかな。近鉄興業だって、近鉄さんという電鉄さんがね。

三田村 企業にまだお金を出す余力があったということですね。

福本 そうそうそう、ある程度赤字も大目に見れた。まだ厳しい数字も。

寺岡 近鉄電車に中吊り広告を毎月張ってありましたね。今月のラインナップ・・・

福本 近小とか。アート館もそうやったね。近鉄の阿倍野にアート館っていうのがあってね。そこも演劇とかやってはってんけれども。皆そのプログラムがちゃんと近鉄電車乗ったら中に張ってあってん。今そんなことは無いじゃない(笑)、宝塚とか劇団四季ぐらいで。もう新幹線であろうがどこであろうが平田オリザ(註24)さんであろうが載らない時代ですけれども。梅田芸術劇場くらいがたまに阪急電車にのせてるくらい、本当に無くなっちゃったでしょ。
これは本当にね、若い人に特にわかっておいて欲しいし一番わかりたくないところやと思うけれども、経済なんですよ、ベースは。経済動向をしっかり、嫌でも見つめざるを得なくなってくる。続けていたら。恐らく三田村さんもそうやと思うけれど、劇団に入って、あなた達が一番ある種僕らから見たらアンラッキーな・・・しんどい時代に入っちゃって・・・

三田村 氷河期みたいなものなんですかね(笑)

福本 おいおいっていう、ミュージアムとかなんやねんあれっていう風に、それこそ10年前の世代の人なんなんや、という風に思われたかも知れへんし、僕らはちっとも恵まれてないやんていう(笑)・・・

寺岡 三田村君はどうありたい?これから。

三田村 えっ、僕の話ですか?

寺岡 そこがやはりポイントになると思うもの。

三田村 何でしょうね・・・でも昔に戻ることなど不可能じゃないですか。華やかな時代に戻れない中でどうやってこう・・・

福本 それをね、やっぱりね、一緒になってこれから小屋者と劇団が考えていく・・・

三田村 そうなんです。答えなんて出ないし・・・出ないです。

福本 ただ理想として、こうありたいというビジョンというのは持ってたらいいと思う。ただそれに行く為には今は昔よりはより厳しい、そういう現実を見ないと。そしてさっきの言葉にもあるけど社会とコミットしていかないと。一番見たくないものを段々見ていかざるを得なくなるし、それに対してやっぱり、表現を通じてあるいは劇団にいるということ自体、そのことを意識してやっていかないと、文句ばかり言っていたら子供扱いされちゃう。と思う、これからは。だからお金出してあんたら趣味やねんから文句言うなと、橋下前知事なんか一蹴するよ。好き嫌いは別として―僕は嫌いやけども(笑)、お金にならないものは要りませんって言わはるやん。大阪の人にしてみたらわかりやすい、銭にならんものはいらんわということを代弁しているわけやし、官の常識、民の非常識をそのまま持ち込んできて、どんどん収益性を上げるものにしていきたいと、民間並って言うけど、大阪そんな、街自体冷えとるでと僕は思てんねんけど()そういうところを見ていかないと、生き残っていかないし、表現をしながら、ある程度社会的にも責任というか、こうありたいから、ということは言っていかないといかんし、そのために表現もどうあるべきか―そりゃ何も僕はね、社会を啓蒙するような、昔の新劇がやってたようなことをしろ、とは絶対に言わんし(笑)

三田村 僕も逆にそれで表現が面白く無くならないかと・・・

福本 うん、そう思うねんけどな。

三田村 社会の為に演劇をやっているわけではないんですから・・・

福本 うん、けどそこはそこで、じゃあ正にどう社会と向き合いながらそれに対して―お前等の為に俺は芝居してるんちゃうねんという表現のベースにあるものを崩さずに―どう伝えていくかやろうな。それは只単に戦うだけじゃないかもしれないし、一番嫌な言葉を使うと妥協というかグレーゾーンというか、そういうものをどこで見つけ出していくか・・・

三田村 戦い方を考えなくてはいけないのではないかということですよね。

福本 平田オリザさんだって、そこで恐らくぎりぎりのところでそういう表現をして戦ってきた人やと思う。あの人が一番そうやと思うし、燐光群さんはずっとあの凄い芝居をもってあちこち回って戦い続けているわけやし、そのベースにあるものは何なのかっていう・・・三田村さんが今言ったような俺は社会の為にやってるわけじゃないぞと。

三田村 うーん、無いんですけど・・・

福本 でもそれが、批判であろうが矛盾であろうが、何かやってることがそれこそ見ている人に何かをもたらす・・・まあ現代演劇の表現っていうのは―違うって言われるかもわからんけど、例えば今の社会の、世の中或いは個人の壊れ方について表現しているとしたらよ、それを見た人がどう感じるか、ということを持って帰ってもらうものやんか。だからある組織がこういう矛盾を抱えてて、こんな人が組織にいて戦っている人も俺はどうでもええわと思っている人もおる、ような芝居があったとしたら、それを観た人がどう思うか、やと思うねんけど、でもまずは表現というものをどう・・・社会というものを映し出していくというか、自分が社会をどう伝えていくか、そこになるんちゃうかな、突き詰めていけば。
だから小屋でもそう。どれだけ演劇不動産業でありながら(笑)、単にそうじゃないハコとして存在していくか・何処までそれが出来るか。それは全ての面で。前提の小屋代とか、あるいは劇団さんとのお付き合いの仕方とか、そういうことも含めて、今はどこまで身を削っていけるかということでやっぱり戦っていかざるをいかないような気がしてる。だからこそ表現の現場の人たちとチームになって・・・べったりするって言ってるんじゃないよ、べったりするのはよくないと僕は思ってるんで。チームになりながら、数しか問わん社会と向き合っていくか。
余談やけど、今日ちょうどね、朝日新聞に北村想(註25)さんの寿歌のことが特集で載っていて、そして寿歌を通じて、例えば今被災地で寿歌をやったらみたいなことがコメントで出ていて、とってもいい事を仰ってるんだけど、ちゃんと写真ででかく文化面で出てるんで。ある種1人の演劇人として、今の社会とどう向き合ってはるかということがとても見えてくる文章で読まれるといいと思います。・・・今日は何か、全然ウイングと関係無い話を・・・

三田村 いや、面白いです(笑)

福本 でもほんまにな、ほんまに言いたないけど、経済と向き合わんとどうしようもない(笑)

三田村 90年代という時代を通っているからこそ、今強くそう思われるのかもしれませんよね。

福本 90年代もそれなりに向き合って酒飲んでたけどなあ(笑)

三田村 90年代は動員自体はもの凄かったんですか?

福本 いや、劇団によってばらばらでしたね。今ね、おかげさまでウイングも長いことやってるからかもしれへんけど、お客さん割と入っているよね。まあそら200人入ることはまずないけれど平均したら・・・そう思いません寺岡さん?

寺岡 劇団同士は90年代の方が見ていたと思う。今は本当に自分のお友達のところしか見に行っていないんちゃうかな。

三田村 では、昔は全く知らないところでも見に行ってみる、という感じがあったんですか。

寺岡 だから、ここちょっと有名やから行ってみようかなとかっていうのがあったかな。だから今は凄くやる側もオタク化しているような感じはする。後例えば10人以上の劇団―そういうのが劇団と言われていた気がすると言うか。

三田村 今はもう1人劇団とかありますからね、平均3、4人くらい、それが普通と言うか。

寺岡 昨日サカイ君と喋っていてね、サカイヒロト(註26)君。彼もクロムモリブデンやったから。いやー、昔は同じ劇団で嫌いから喋れなかった奴とかいましたよねーって(笑)。今は34人やから仲悪かったら一緒にやってけないよって(笑)。在り様もだいぶ変わっているような気がするよ。

三田村 じゃあ、90年代の劇団の人数は2桁くらいが普通なんでしょうか。

寺岡 ・・・もあるし2桁に近いところで。劇団としてのプライドもあったような気がする。客演を呼ぶということはどうなんだ、とか。

福本 アイツ嫌いやとか劇団同士でもあったやろしな。よりとんがってはったね皆ね。

三田村 90年代でウイングが育てた・育った劇団はどれくらいあるのでしょうか。

福本 色々いてはるね。

寺岡 でも筆頭は太陽族ちゃいますか。

福本 岩崎さんとか深津さんとか、蟷螂さん(註27)とか。dracom(註28もそうやし。若い人たちにもこれから出てきて欲しいなと思って、寺岡なんかが今色んな企画をやって若い劇団を応援してやってるんですけれども。勿論、土橋君(註29)や竹内君(註30)だって10年前やけれども学生でここでやったわけやし、幾つかいるよ。まあ大竹野さん(註31)たちもね、ここで随分犬の事ム所の時に2回やってくれて、その後くじら企画って独立してからカラビンカとうちと。ゼロが無くなったこともあって、公演するいうたらたまにアイホールもやってはったけれど、アイホール・芸創・ウイングっていうゾーンでやっていて、最後は途中で亡くなられたけれども、賞を取って頂いた作品も含めて、お互いここで楽しくやろうということだったし、その意味で90年代は流星倶楽部もそうやし、深津さんなんかも、岩崎さんも、中島陸郎がいたから来てくれた人やし・・・

三田村 では岩崎さんも深津さんも中島さんが来い、来いよ、と?

福本 うん、岩崎さんもオープンした時からのお付き合いなんやけど、憩いの果実って言う作品やったんやけどね、その作品の時から来てもらってそれが92年の6月か、その時から、岩崎さんまだ29ぐらいやったと思うわ。ここでレ・ボリューションもやってもらったし。それで、大きなところも小さなところも行きはるようになったわけやし。深津さんなんかは、誰も知らない桃園会という劇団を、中島がDMが来たから京都行くついでに同志社の新町別館に見に行って。この劇団知らんでしょと言われて、知りませんて。僕ちょっと京都に泊りがけで行くから、ついでにDM来たところは見てきますと。新町別館は当時中島がマキノノゾミ(註32)さんとかを若い時に見ていた三劇の関係のハコやから、行って来ますって行って、引っ張り出してきた(笑)。で、ウイングでやりませんかって言ってウイングでやった。鈴江さんは暫く八時半と言う劇団を休止させてて、会ってここに連れてきたわけやし、蟷螂さんもリリパットアーミーに一時所属していたけど離れると言うことになって、PM/飛ぶ教室っていう劇団を作ったときに来てくれはって3、4回ここでやって。佳作と大賞を取りはった作品をやってもらって。

■ 90年代総括・そしてウイングフィールドのこれから

福本 小屋としたら、今はもう本当に拠点なるものが無いかもしれない。
僕はあると思ってるねん。アイホールとか。今はある意味そうやと思ってるねん。中々この先厳しいやろうけど、なりうると思ってる、なってもらってると思ってるんやけどその役は。で、そのゾーンの中にウイングは入ってると思ってるねん。アイホールさんでやって大抵ウイングでやって、精華があった時代は精華でやって・・・トライアングルが出来てたやんか、その中でウイングだけがとてもやないけど王様には成れないハコなんで、拠点では無いので、チョイスしてもらえる、そして小さいけれども、主演男優賞は取れなくても助演男優賞ぐらいで・・・いつも支えてますよ、みたいな。
僕自身はそういう意味で―本音を言えばウイングは、この船はでかい戦艦ではないと思ってるんで。駆逐艦みたいなものなんで、潜水艦、小さい船なんで。大きな船では出来ないことをやっている拠点やとは思ってるねん。小いちゃな拠点やと思ってる。やけど、それを自分から自慢して、うち拠点ですとはよう言えない・言わないし(笑)、拠点て言うのは恐らく皆のイメージするある程度の規模があって、プロデューサーがいて、ということだろうと思う。館長に演劇に理解ある人がいて、財政的にもある程度劇団を支援できるということが揃って始めて拠点と言うことが出来ると思うんやけど、それから言うたらウイングは出来ないけれども、だから野戦病院であったり、小さな船であったりと思ってるんやけれども、その分、大きなハコでは出来ないことを僕らはやりたいし、劇団さんにも正にやって欲しいと思ってるし、今恐らく来てくれている劇団の殆どは、普段出来ないことを―この前の内藤さんの七人の部長なんかはその典型な訳で、言ったら南河内万歳一座としたら色んな条件でウイングでは出来へんけれど内藤裕敬単体で、友達を呼んできてやりましたってことじゃないですか。で、空の驛舎さんも桃園会さんもそうやし、今の太陽族さんもそうやけど、アイホールさんでやる時とまた違った色の芝居をここで作りますよってことでしょ。それはつまりウイングって色を認めて下さっているからやと思うし、そういう色のウイングは小っちゃな拠点として、大きなハコでは出来へんことをやりまっせと。で、うちで出来へんことをどうぞアイホールさんでやって下さいとか、どこそこでやって下さいと思ってるし。そういうチョイスの中に残れて独自色として、他所でやれないことをうちで思いっきりやって下さいっていう・・・それやと思うんねんけどな。そういうつながりと言うか、やっぱりこれからも作って行きたいなと思って。

三田村 そうですね。若い世代の人たちの間とも・・・

福本 ベテラン・中堅の人たちとも、そうしてずっとお付き合いさせてもらってるんやから、そういう絆というか―絆なんてね、しんどい言葉やから、行政が使いそうやから・・・まあまあまあ、何でもいいさ(笑)

三田村 最後に、90年代に印象深かったこと・振り返って何かあればお願いしたいのですが。

福本 一言で集約すれば、大阪小劇場・関西小劇場にとって凄く恵まれていた時代だと思う。今でもあるけど京都にアトリエ劇研・当時無門館というのが存在していて遠藤寿美子(註33)さんがばりばりやってはったわけやし。その意味で言えば関西、特に大阪にとっては90年代は恵まれた時代だったと思う。たくさん、恐竜からちっちゃな哺乳動物まで(笑)・・・今は何か氷河期で動物も生き難くなっているから。

三田村 群雄割拠みたいな感じだったんでしょうか。

福本 そうやね、野外劇、今残っている野外劇も80年代、90年代と・・・だから維新派さんとか犯罪友の会さんとか態変さんもそうやけど、野外で定期的にやってはる方っていうのはまあ7080年・・・70年代くらいから生き残ってるという人たちや無いですか。

寺岡 70年代・60年代はどういう人が演劇をやっていたんですか?不良みたいなやつがやってたんですか?

福本 変な奴がやってたような気がするねん(笑)、武田さん(註34)なんか爽やかな青年やったみたいやで(笑)、松本雄吉(註35)さんは好きなようにやってたよって言ってはったけど、皆かなり・・・だってバンドやってた連中から見たら演劇やってるって、アングラな変なことやってるみたいやでっていう。パフォーマンスとかハプニングって言う言葉が出始めた頃やったんで。それこそ70年代の話やけれど。そんな連中が、何かストーリーの無いものをやっているという。僕らバンドして音楽っていう言葉があってわかりやすいものをしていると、で非常に客に媚びたようなことをやっていると―そうでもなかったけどもまあ、演劇から比べたら遥かにそうさ、上を目指そうという助平根性だけでやってたもんから見ると、変わった奴等やなあと思ってた。未だ天王寺は野音があったから、あの辺で蠢いている人がたくさん阿倍野近辺にいたから。僕もその阿倍野近辺でうろちょろしていた人間の1人だったんやけど。それから観たら随分変な連中だったよ。

寺岡 90年代で演劇が商品化されたっていうことが言えるかも知れないですね。商品になるっていう風に。

福本 まあ俳優さんたちが、特に90年代の劇団さんからマスコミに出だした人がいるじゃない。新感線の人とか。昔は槍魔栗三助と言っていた生瀬(勝久)さんとかその他、佐々木蔵之介とか色々いるやん。そういう人達が単体で―関西の小劇場出身で、勿論東京にもたくさんいはるけれど―そういうチョイスの仕方になって、劇団はそれで損害を多少なりとも受けたかも知れないけれども、生きていけるっていうことを役者が証明し始めた。で、東京では劇作家がマスコミに取り上げられて90年代特に2000年代に入ってからたくさん出てきて。早いのは野田秀樹とか鴻上さんとか。ある種商品になりえるって言うとこなんじゃないかな。だけど、それが末端に来ているかって言うたら、来て無いよね。
・・・だから前、あなたが京都で出している雑誌(註36)で書いていた、打ち上げで酒ばっかり飲んでいてこいつ等いいのかと・・・

三田村 (笑)そういうことじゃないんですけど(※本当です)・・・

福本 や、別にそういうことじゃないと思ってるよ。只単に一回、これで終わらせてしまうのがいいのかって事なんちゃうの。繋がらない・・・

三田村 ええ、つまりそういうことなんです。後個人的な話なんですが・・・最近あまり打ちあがれない時があるんですよ。今回イケてなかったなあと・・・打ちあがっていいいんだろうか?と・・・僕の話はいいんですけど(笑)

福本 それだけな、深まってきたんやと思うねん。ずっと役者として続けてて。だから常に懐疑的に思う、理想と言うのが見えてきたんやな、深みが・・・深みに嵌った人、として(笑)、だって若かったら打ちあがっといたらええやん。

三田村 や、打ちあがるんですけど、何かちょっと・・・

福本 それはやっぱりそれだけ経験積んで、役者っていう精神と身体になってきてるからやと思う。先に行く為の満足しがい度が自分の中で高まってはるんちゃう。そんな気がするな。凄い印象残ってん。普段話せえへんやん。

三田村 そうですね。有難うございます。

福本 で、伊藤君からお話をもらった時に、2人来るんやったら面白そうやなと思って、C.T.T.を今後どうしようという風に思ってはるのか、で、どこまで僕らが役に立ったらいいのかって、この人たちやったら面白そうやなあと思って。まあヨイショも含めて(笑)。
まああんまりお金の話はしたくない(笑)、芸術論だけを言っていれば理想なんですよ、それは。でも、こういう世の中で見たくないものも見ていかないと。生きる為にはそういう毒と言うか、泥の中に入っていかないと。それこそ僕思ってるねん、ミナミというね、泥田んぼの中に蓮も咲くと。蓮っていうのは泥の中に咲いて、泥の中にレンコンというとってもいい食べ物が出来るわけじゃないですか、好きか嫌いかは別として。蓮の花って綺麗な水の中には咲かないでしょう。そういうことやと思うんよ。芸術って言うのは―あんまり芸術芸術言いたくなんやけど、表現っていうのはそういう悪環境の中から―勿論、ピュアな綺麗な環境の中からも芸術は出来てくるけれども、それ以上に生々しいどろどろとしたものの中から生まれてくるものじゃないかな。だからこそ現実も見なあかんし、手の届かないところにあるお釈迦様の世界に(笑)、理想の世界、こうありたいと言う世界にやっぱり志を捨てたらあかんし、僕らはやっぱり泥の中で居て、その泥や池の上に咲いてる蓮の花を目指さなあかんのちゃうかな、ていう気はする。生きていくってそういうことやと思うし。
・・・はい、すいませんつまんないことを喋りました(笑)、次はもうちょっと理想的なことを喋りましょう、今日は敢えてリアルな話をしようと思っていたので(笑)

三田村 いえいえ!ところで次回は2000年代のお話、その次はリアルなお話・これからの話を出来たらといいなと思っています。

福本 しましょう。ちょっと寺岡さんにも喋ってもらっていい?2000年代はあなたと一緒に喋ろう。

寺岡 小劇場の大恐慌時代(笑)、月に2本しか入っていないとか・・・

福本 月に1本も無かったとかね(笑)、ハコとしての話。まあそれも含めて、変わってきた2000年代の演劇とか、新しい世代の話とかも出来ればいいね。

三田村 そうですね。次回も宜しくお願いします。本日は長い時間ありがとうございました。

2011824 NPO法人大阪現代舞台芸術協会(DIVE)事務所にて 聞き手:三田村啓示)

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*注釈* [以下、特に記載の無いものについては主にWEB上の情報からの引用です]

註1・・・195060年代に10代後半からの10年間、前衛演劇集団大阪円型劇場(月光会)でプロデューサーの役割を果たしながら、劇作・演出・研究ノート等の編集に携わる。1970年代後半、阪急ファイブ・オレンジルームの創設に参画した後、プロデューサーとして10年間携わる。その間、現在の関西小劇場の原点ともいえる学生劇団を中心としたオレンジ演劇祭の仕掛け人となり、「劇団新感線」「南河内万歳一座」「劇団太陽族」などを世に送り出す。198485年、文化複合施設・扇町ミュージアムスクエアの基本計画策定にブレーンの一人として参画する。199192年、ウイングフィールドの創設に際して、ハード・ソフト両面で参画。開設後はプロデューサーとして活躍。1994年より個人で大阪市に働きかけを行い、やがて文化振興課(当時)のプロジェクトに参画して、芸術創造館設立、大阪現代演劇祭開催を主導する。1999614日永眠。著書に「阿片とサフラン~演劇プロデューサーという仕事~」、「跫(あしおと)の中から足音」など。(引用先:精華演劇祭 vol.12 DIVE Selection vol.3 参加劇団募集要項 より)

註2・・・略称OMS 。若者文化の発信基地を目指し、倉庫を改造した小劇場「フォーラム」、名画を上映するミニシアター「コロキューム」、雑貨店「souvenir」、カフェレストラン「saloon REPAIR」、ギャラリー「ギルドギャラリー」を備え、近鉄劇場などと共に大阪における演劇文化を支えた施設であった。特に小劇場「フォーラム」は「関西小劇場のメッカ」とも呼ばれる存在で、劇団新感線、南河内万歳一座、リリパット・アーミーなど関西の劇団が活躍。 2003316日をもって18年の歴史を閉じた。

註3・・・大阪・堂島の専門学校地下にある教室を利用して作られた劇場。1988年オープン。ハイスクールプレイフェスティバル(HPF)にも尽力し、若手の育成にも力を入れた。スペースゼロ演劇賞の制定、年1回のプロデュース公演など、この劇場での出会いが集団の母体となっている劇団も多数。2002年閉鎖。

註4・・・関西小劇場演劇の拠点の1つ。自主事業の中心は演劇とダンスで、伊丹想流私塾(戯曲講座)、ダンスワークショップ、フラメンコ教室などの自主講座なども行う。

註5・・・吹田市文化会館、愛称メイシアター。大阪府吹田市にある多目的ホール。演劇など舞台芸術の主催事業も積極的に行っている。

註6・・・大阪市立芸術創造館。1994年より中島陸郎が個人で大阪市に働きかけを始め、公設民営稽古場プロジェクトの民間側の座長格として参画。2000115日、演劇と音楽をメインとした専用練習場施設としてオープン。

註7・・・明治6年に開校し、平成7年に閉校した精華小学校の体育館部分を、客席数約200席の小劇場に改修。大阪市地元の方々と演劇関係者で構成する「精華小劇場活用実行委員会」が運営を担い、「精華演劇祭」をメインイベントに、主に実行委員会のセレクトした催し(主催事業)を行う「拠点」劇場として2004年オープン。しかし一転、07年に大阪市が同小学校跡地を「未利用地」と位置付け処分検討地となり、処分の準備をする為、暫定期間の10年を待たずして 2011年3月31日をもって、閉館。


註9・・・大阪市営地下鉄堺筋線沿線の小劇場が中心となって行われる連携型の演劇祭。一昨年(2009年)にスタートし今年(2011年)で3回目となる。 ちなみに呼びかけ人の代表は福本さんである。詳細は⇒http://muriyari.chicappa.jp/blog/?eid=2

註10・・・大阪府立男女共同参画・青少年センター。財団法人男女共同参画推進財団が運営する施設。愛称はドーンセンター

註11・・・大阪府立青少年会館森之宮プラネットステーション。橋下徹前大阪府知事が掲げる「大阪維新プログラム」の一環で2009630日で廃止。会議室やスタジオ、ホールなどで構成され、プラネットホールでは演劇公演が非常に盛んに行われた。

註12・・・主にインタビュー1回目の終盤を参照。

註13・・・1954年に、近鉄会館として大阪上本町駅南側の上六小劇場跡に建設された。1985年、上本町駅ターミナル整備の一環として、全面的な改装を実施、上六映画劇場は近鉄劇場に、地階の上六地下劇場は近鉄小劇場として、同年103日にオープンした。近鉄劇場は954席を設け、劇団四季やOSK日本歌劇団、ABCミュージカルなどのミュージカルや演劇、コンサートといった公演に使われた。一方、近鉄小劇場は420席を設け、小劇団の公演などが数多く行われた。近鉄劇場、近鉄小劇場とも東京の劇団、上演団体の公演が数多くおこなわれ、大阪に東京演劇の最新動向を伝える役割を果たした。2004年閉鎖。

註14・・・演出家・劇作家、空の驛舎主宰。現伊丹想流私塾マスターコース講師。

註15・・・1983年、大阪造形センターに併設。演劇・舞踏・美術・パフォーマンス・映像・音楽・落語など多分野を横断・接続スペースとしても機能、現代美術からデザイン・生活アート(雑貨etc.)など作品展示/発表の際は「OZC ギャラリー」として開放。2008年、カラビンカ・GalleryからOZC GALLERY+CAFEへ移行。

註16・・・劇作家・演出家。劇団桃園会主宰。1992年桃園会を旗揚げ。1998年「うちやまつり」で岸田國士戯曲賞 受賞。2005年には読売演劇大賞演出賞・作品賞受賞。

註17・・・劇作家、演出家、俳優。1993年「劇団八時半」を結成、2007年1月に活動を休止し同年12月に「office 白ヒ沼」を設立、代表を務める。

註18・・・劇作家・演出家、劇団太陽族主宰。08年より伊丹アイホールディレクターに就任、NPO法人大阪現代舞台芸術協会(DIVE)理事長も務める。

註19・・・http://www.ramo-nakajima.com/ に詳しい。1986年に笑殺軍団リリパットアーミーを旗揚げし、2001年の引退まで作・演出・出演などを務め大阪の演劇界にもゆかりが深く、リスペクトする者は後を絶たない。2004年死去。

註20・・・劇団新感線。1980年、当時の大阪芸術大学舞台芸術学科4回生を中心としたメンバーで旗揚げ。関西学生演劇ブームの中心的存在となる。

註21・・・内藤裕敬。南河内万歳一座・座長。1980年、南河内万歳一座 を 『蛇姫様』(作・唐十郎/演出・内藤裕敬 )で旗揚げ。以降、全作品の作・演出を手がける。

註22・・・1978年、ボウリング場を改修する形で阪急ファイブビル(現HEP FIVE)8階にオープン、当時極めて重要な役割を果たした劇場。当時の阪急ファイブは、若者の最先端のファッション情報基地であり、若者重視の自主企画というコンセプトの元運営され、82年5日間で3700人を動員した「オレンジ演劇祭」はその後の関西小劇場シーンを決定付けたといえる。惑星ピスタチオやそとばこまち、劇団新感線や南河内万歳一座が公演会場として利用していたことで、関西学生演劇ブームのきっかけとなった。 (主な引用先:演劇フリーペーパー「とまる。」2011年春号・連載「京阪神の小劇場史について本気出して考えてみた」坂本秀夫 より )

註23・・・山納洋。1993年大阪ガス入社、1996年から「神戸アートビレッジセンター」、97年から「扇町ミュージアムスクエア(OMS)」担当。20034月より、「扇町インキュベーションプラザ(メビック扇町)」コラボレーションマネージャー。「SINGLES PROJECT」代表。「大阪21世紀協会」、コラボレーションセンターチーフ・プロデューサー。

註24・・・劇作家、演出家。青年団主宰、こまばアゴラ劇場支配人、内閣官房参与、大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授、首都大学東京、日本劇作家協会理事。大阪大学教授就任後は、大阪の文化活動にもかかわっている。

註25・・・劇作家・演出家。1979年、『寿歌』を含む書籍『不・思・議・想・時・記』を、「名古屋プレイガイドジャーナル社」から半自費出版で刊行し、岸田國士戯曲賞候補となり注目される。1984年、『十一人の少年』で第28回岸田國士戯曲賞受賞。1996年より伊丹アイホールの戯曲講座「伊丹想流私塾(いたみ・そりゅうしじゅく)」にて後進の指導、育成にも努める。

註26・・・1993年から97年まで遊気舎に俳優として、1996年から99年までクロムモリブデンに俳優・劇作・演出・美術家として所属。2000年よりパフォーミング・アーツのためのユニットWI'REを企画制作。他劇団作品の美術・映像製作なども行う。2002年、「mju::::zikal」 でOMS戯曲賞大賞受賞。

註27・・・俳優、劇作家。劇団「PM/飛ぶ教室」主宰。1979年劇団犯罪友の会で初舞台。劇団満開座を経て、1989年より中島らもの劇団「笑殺軍団リリパットアーミー」に所属する。1994年、「PM/飛ぶ教室」を旗揚げ。

註28・・・1992年、前身となる劇団ドラマティック・カンパニーが大阪芸術大学の学生を中心に旗揚げ。基本的には年に1回の本公演(=「祭典」)と、同集団内の別ユニットによる小公演を不定期に行う。公式WEBサイト⇒http://dracom-pag.org/

註29・・・AMissing Linkにて作・演出を担当。関係性を重視した丁寧な演出と、知的エンタメ系を自称する脚本に定評がある。 2009、「裏山の犬にでも喰われろ!」 でOMS戯曲賞佳作を受賞

註30・・・劇作家、演出家、俳優。デス電所代表。2006年『音速漂流歌劇団』にて、第13OMS戯曲賞大賞を受賞。

註31・・・劇作家・演出家。1982年犬の事ム所設立、97年散会し同年くじら企画設立。2009年、遊泳中の事故で死去。

註32・・・俳優、劇作家、脚本家。劇団M.O.P主宰(2010年解散)。日本劇作家協会常務理事を務める。

註33・・・演劇プロデューサー 。84年、京都市に劇場「アートスペース無門館」(現・アトリエ劇研)を開設。松田正隆、鈴江俊郎など若い劇作家や役者を発掘し、発表の場として同施設を提供した。91年からは 京都市による芸術文化事業「芸術祭典・京」に演劇部門のプロデューサーとして参加、97年には同イベントで手掛けた『月の岬』(作:松田正隆 演出:平田オリザ)で読売演劇大賞最優秀作品賞を受賞。伝統芸能の海外公演も積極的に行い、2002年にはサントリー地域文化賞を受賞した。2003年死去。

註34・・・武田一度。大阪市出身。1976年劇団「犯罪友の会」結成。主宰、作・演出。近年は春の小劇場公演、秋の野外劇公演というスタイルが定着した。

註35・・・ 1970年維新派を結成。1974年以降のすべての作品で脚本・演出を手がける。独自のスタイル「ヂャンヂャン☆オペラ」を確立。野外にこだわり、近年は、観客とともに旅をする「漂流」シリーズを企画し、奈良の室生寺や離島などで公演を行い話題となる。受賞・海外からの招聘多数。先日、秋の紫綬褒章を受章した。

註36・・・「演劇フリーペーパー とまる。」⇒とまる。企画より2008年より発行されている無料の京都演劇情報誌(季刊)。三田村が大阪の演劇事情についてのコラムを連載中。 本インタビューの注釈の引用・参考元として頻出する坂本秀夫氏による京阪神小劇場史も連載されており必見。