2012年10月10日水曜日

C.T.T.大阪事務局試演会vol.13 開催のお知らせ

大変お待たせ致しました。
10月22、23日に開催が決定した第13回試演会の参加2団体をご紹介します!
ご予約も受け付けております。下記予約方法を参照下さい。
皆様のご来場、心からお待ちしております。

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C.T.T.大阪事務局試演会 vol.13

【日 時】 2012年10月22日(月)19:00~/23日(火)19:00~
※受付開始、開場は開演の30分前。

【参加団体】
・演劇集合体「喜擊名詞の反撃」 『傍観者』
・演劇共同体ゴブリンパンチ
 『ノコサレタ熱』
 

【上演協力金】 900円(前売・当日共通)

【会場】 ウイングフィールド  (http://www.wing-f.co.jp tel:06-6211-8427)

【予約方法】
観劇希望日、お名前、連絡先を下記メールアドレスにお知らせ下さい。
その他問合せも承っております。

● メール    cttosk@gmail.com
●電話      070-5439-6098(イトウ)

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企 画・製作 C.T.T.大阪事務局
共催    ウイングフィールド
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今回の団体×2
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◎ 演劇集合体「喜擊名詞の反撃」 『傍観者』

作・演出 / 喜擊名詞 出演 / 埜口敏博、草場樹 (FBI)、九鬼そねみ、悲逆名詞  
協力 / 東山青少年活動センター、音響 . リス

団体プロフィール】
 
喜擊名詞の反撃・・・2012 年春に作・演出の喜擊名詞を中心として発足した演劇ユニット。相方である悲逆名詞、そして協力者募集の声に応えてくれた埜口敏博、九鬼そねみ、草場樹らと共に初の自主公演(試演)に臨む。応援してくれたその他の全ての方の「愛」に応えるべく、努めていくつもりでいる。

【C.T.T. で上演をする理由 

今回が初めての上演・演出となるため本公演の礎を築くため。演出も脚本も未熟なため様々な意見を聞き、今後の活動に役立てたいと思っています。 

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◎ 演劇共同体ゴブリンパンチ 『ノコサレタ熱』

作 / 河合穂高 演出 / 小山裕暉 音響 / 東山直樹 
出演者 / 飯嶋松之助(自由劇場、長尾大樹、中西綾子 

団体プロフィール】
 2011 年に六甲高校演劇部の OB を中心に発足。現在は西宮で活動しつつ、今後は大阪での活動を目指している。 

【C.T.T. で上演をする理由
 この度、劇団に新しく脚本家が参加することになり、これまでとは全く異なる、喜劇的要素のほぼ皆無の抽象芝居をする上で、観客の方の反応を直に感じられる C.T.T. に参加したいと思ったため。喜劇的要素のない芝居をすることが初めてで拙いものになるかもしれませんが、素直な観客の方の反応を知りたいと思っています。

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2012年9月25日火曜日

10月試演会 応募締切+団体決定のお知らせ

10月試演会の募集は既に締切致しました。 
ご応募ありがとうございました。
結果、今回は下記2団体で試演会を行う予定です。
詳細はもうしばらくお待ちください。

■参加団体
・演劇集合体「喜擊名詞の反撃」
・演劇共同体ゴブリンパンチ

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10月以降も試演会の募集は随時行っております。
ご興味ある方は、お気軽にC.T.T.大阪事務局までお問い合わせください。

C.T.T.の企画書の配信も行っております。
こちらもご要望の方はお気軽に事務局までお問い合わせ下さい。

2012年8月25日土曜日

10月試演会、開催します。3団体目の募集です。

2012年10月22日(火)、23日(水)に試演会vol.13開催します。
会場は、ウイングフィールドです。

すでに2団体の申し込みがありますが、もう1団体の申し込みをただいま受付中です。

〆切は、9月2日(日)

申し込み方法など、詳細は以下ご確認ください。
http://cttosk.blogspot.jp/2012/07/201210.html

どうぞよろしくお願いいたします。

2012年7月17日火曜日

2012年10月 参加団体 募集

C.T.T.大阪事務局の次回試演会は、2012年10月末を予定しています。
そこで、参加される個人、団体を3枠募集します。

 ※応募が0団体の場合、試演会は開催されません。試演会は最低2団体以上で開催となります。

詳細は下記の通りです。
興味を持たれましたら是非一度、大阪事務局までお問い合わせください。

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【開催日時】
 2012年10月下旬の平日2日(仕込み・リハーサル含む)

【会場】
ウイングフィールド

【募集枠数】
3団体 ※多数応募があった場合は先着順となります。

【1枠あたりの上演時間】
30分以内+全出演団体と観客との合評会30分

【参加費】
2500円×参加人数 ※スタッフの人数も含まれます。

【基本舞台】
奥行き2間×間口3間、プラスマイナス0、グレーパンチ、基本袖幕は無し(希望される場合は対応可。その場合袖幕色は黒)。客席雛壇桟敷。

【音響・照明】
地明かりのみをオペレーターも含めて事務局が用意。それ以上の効果を希望する場合は各団体負担。音響効果を使う場合は各団体負担。タイムテーブル内での仕込みが出来ることが条件となります。

【合評会】
各ステージ終演後に、司会者を立てて創作者に作品について語ってもらい、観客を交えてディスカッションする合評会を行います。上演作品についての疑問や感想、より良くなるための改善点なども観客を交えて話します。

【募集締切】応募団体が2団体来た時点で、応募〆切とします。

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 【申込方法】
参加希望団体は以下の項目を、C.T.T.大阪事務局までメールにてお知らせ下さい。

・申込者氏名
・申込者連絡先(電話番号)
・参加団体名・参加者氏名全員分
・作品タイトル・出演者、スタッフ(劇作/演出)氏名
・[舞台]置き道具(机や椅子など)の有無(有る場合は品物名をお知らせください)
・[舞台]火や水など施設を損傷する可能性のあるものの有無(有る場合はなにを使うかお知らせください)
・[照明]地明かり以上の効果の有無
・[音響]劇場設備を使うかどうか
・参加団体プロフィール
・C.T.T.で上演をする理由・目的・合評会をどう活用したいか。何を聞いてみたいか。

 ◎お申し込み・お問い合わせ
C.T.T.大阪事務局 Mail cttosk■gmail.com ※■を@にして送信して下さい。

2012年5月8日火曜日

試演会vol.12 参加団体のご紹介!

5月8、9日に開催が決定した第12回試演会の参加3団体をご紹介します!
試演会の詳細も最後に記載していますので、ぜひお越しください。

それでは、1団体目です!!


プラズマみかん
プラズマみかんの種まき始めました。 「プリンのようなあの娘をすくって」(仮)
・作/ プラズマみかん
・構成・演出/中嶋悠紀子
・出演/屋鋪柚佳 中嶋悠紀子 芝田聖月    辻るりこ(売込隊ビーム)

●プロフィール
2006年皮切り。思い込みの膨らんだ世界で、他者との距離を図れず不器用に藻掻く人々を、実際にあった事件を用いながら表現する。最近はグループ創作に取り組み、台本のない状態からでも俳優だけで物語を立ち上げる訓練に重点を置いている。
プラズマ=物質の第四形態   みかん=未完成のくだもの(くだらないもの)

●C.T.T.で上演をする理由・目的
①一緒に作品創作に取り組める仲間を増やしたい。
②グループ創作の訓練。

●合評会をどう活用したいか。何を聞いてみたいか。
私たちはこれまで、作家が描いた戯曲を演出し、上演するーという方法でお芝居作りに取り組んできました。しかし最近、俳優たちが主体となって物語を構築するグループ創作に魅力を感じるようになり、作品づくりへのアプローチの方法を大きく変えてみることにしました。
そして今、私たちは共に芝居作りに取り組んでくれるメンバーを切実に探しています。
合評会では、作品の創作過程についてお話します。作品に対する意見交換と、メンバー募集に向けてのアピールが出来ればと思います。


続いて2団体目!!


手のひらに星
『だれかのことを強く思ってみたかった』
・原作/角田光代
・脚色・演出/篠巳槇(シバイシマイ)
・出演/仁津真実(シバイシマイ) chihiro(斬撃☆ニトロ) イトウエリ(手のひらに星)

●プロフィール
関西大学劇団万絵巻、劇団そとばこまちを経て、現在フリーで活動中のイトウエリが、好きな事を気ままにしていく一人ユニット。

●C.T.T.で上演をする理由・目的
今年度に控えている手のひらに星の活動の幕開けとして、よいタイミングなのではと思い、応募させて頂きました。

●合評会をどう活用したいか。何を聞いてみたいか。
演者の言葉や身体を使って、情景がをどのように描けるかを試してみたいので、観て頂いた方たちの目にどのように映ったのかを、伺いたいです。


3団体目はこちら!!


Pan///
フミエノフミエ
作・演出・構成・出演/伊藤拓 構成・出演/岩﨑小枝子

●プロフィール
伊藤拓/演出家、劇作家、元France_pan代表。2007年度若手演出家コンクール優秀賞受賞。京都芸術センター舞台芸術賞2009ノミネート演出家。F/T10公募プログラム参加。過去の主な作品に、坪内逍遙訳・シェイクスピア作「ハムレット」を無謀なエネルギーで実行した「Hamelt!!!!!!!!」、自身の家族を下敷きに障害者問題を淡々と描いた「家族っぽい時間」、俳優へのインタビューを構成し観客に向けて自身のプライベートな体験談を俳優がカタル「点在する私」、俳優のドキュメンタリー作品を思考する中で結果的に演出家の在り方に苦悶する自身の姿を曝したセルフドキュメンタリー「ありきたりな生活」など。
※2012年3月をもって、France_panはPan///という名前に変わり、伊藤拓の個人ユニットとなりました。

●C.T.T.で上演をする理由・目的
昨年祖母が亡くなりました。その事を基軸にして作品創作します。晩年、祖母は認知症でした。私は、認知症になった祖母と2度会っています。2度目は死ぬ2時間前でしたが。もう1回ぐらい祖母に会いたいという気持ちと、こういった方法を通じてしか祖母に会えないと思う私の気持ちと、その二つを舞台上で検証しようと思います。

●合評会をどう活用したいか。何を聞いてみたいか。
誰に向けて作品はつくられるのか、一緒に考えてみたいです。



最後に、試演会の詳細です!!予約も受け付けております!!


【   日  時   】  5月8日(火)、9日(水) 両日19時開演(受付開始・開場は開演の20分前)
【上 演 時 間】  各団体約30分×3団体=約90分
【 合  評  会 】  上演終了後合評会があります(約30分)。参加自由。
【上演協力金】 950円(予約・当日共通)
【   会   場   】  ウィングフィールド 
【予 約 方 法】 観劇希望日、氏名、連絡先を下記お問合せ先までお知らせ下さい。
【お問合せ先】 cttosk@amail.com
【   主   催   】 C.T.T.大阪事務局 ( 公式Twitterはこちら→ http://twitter.com/CTTOSK/ )
【   共   催   】 ウィングフィールド http://www.wing-f.co.jp/

2012年4月18日水曜日

ウイングフィールド代表:福本年雄さんインタビュー③


大変お待たせ致しました。
前回よりかなり期間が空いてしまいましたが、C.T.T.大阪事務局企画・ウイングフィールド代表・福本年雄さんへのロングインタビュー、第回目です。90年代を振り返って頂いた前回に続いて、今回は00年代です。
 ところで、00年代の10年間を振り返ってみると、総じて大阪小劇場にとっては厳しい時代だったと言えるのではないでしょうか。そしてこのウイングフィールドも 実は08年に一度は閉館の危機を迎えているのです。その当時、ウイングフィールドでは一体何が起こっていたのか?そしてこれからの若い世代との関わりについて、前回に続きウイングフィールドスタッフ・寺岡永泰さんと共に赤裸々に語って頂きました。

さて、このインタビュー企画も今回でひとまずの最終回を迎えます。この強引な企画に辛抱強くご協力頂いた、福本さんをはじめとするウイングフィールドスタッフの方々に、この場を借りて心から御礼申し上げます。 
では、ごゆっくりお楽しみ下さい。ウイングフィールドは今年20周年を迎えます。(三田村)

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三田村 このロング・インタビューももう3回目となりました。1回目・2回目共に、アクセス数を見る限りでは多くの方に見て頂いているようでして、こちらとしても大変やりがいがあります!

福本 実際演劇人の方とか、記者さんとかお会いすると、おもろいから読んでると直接言ってくれはるんで、この企画、私なんかが出させて頂いて嬉しいな、良かったなと、お役に立つことが出来ればと思ってます。

三田村 こちらこそありがとうございます。で、今回が3回目なんですけれども、1回目はオープン前からオープン直後の話、2回目はオープンしてから―主に90年代と言う枠組みで今の大阪の小劇場・そしてこれからのことも踏まえてお話して頂きました。そして今回は2000年代のお話を聞きたいなと思っております。
・・・ちょっと自分の話になるんですが、僕は2000年代に入って小劇場と言うものを知って観始めた世代です。この10年を振り返ってみると、関西というか大阪にとって、非常に大変な厳しい10年間だったんじゃないかと思うところではあります。具体的なところでは多くの劇場が無くなっていったということ。そして、このウイングフィールドさんにとってもこの2000年代は厳しい時代だったのではないかと。それを象徴するのは2008年、ウイングフィールドの閉館問題です。閉館を一旦は福本さんやスタッフの皆さんが決められたのですが、その後、存続という良い形でこうして続くこととなり、今日もこうしてここで公演が行われています(ちなみに、6階の劇場ではちょうど「水の会」の最終公演の上演の最中だった)。
非常に大変な10年間の話を振り返って頂くのは心痛むところがあるのですが、この10年間、ウイングフィールドにとって、そして大阪に何が起こっていたのかということを福本さんの目線で振り返って頂ければと。閉館の話に行く前に、2000年代に入り閉館の決断を下されるまでどういう経緯があったのかということもお聞かせ頂きたいと思っています。

■ 時代背景

三田村 前回のインタビューで、全てが経済の下に成り立っていると仰られていたんですが、やはりこの国全体の不景気の影響は大きかったんでしょうか。

福本 これ、このウイングがオープンしてからのホットプレスなんですけど、90年代は半ば以降でも(プログラムは)入っていたんですよね。2000年入ってもそこそこは。・・・ちょっと話それるけど、三田村さんは高校までも演劇をなさっていたの?

三田村 いえ、全くです。

福本 大学に入られて、学生劇団をなさって、それから卒業されてから入られたん?

三田村 卒業して、1回演劇を辞めていたというか、空白の期間があったんです。それを経て、という感じになります。

福本 結局今、三田村さんの世代がロスト・ジェネレーションに当たるんかね、就職氷河期と言われたような。世紀末から21世紀に入って経済も非常に厳しくなってきて、その影響もあって、演劇をなさっている方―土橋さん(註1)だったり竹内さん(註2)だったり貴方だったり、今でもいるし、既に20代、大学を出て始めていた人たち・その世代が―主に77年生まれの人たちがちょうどロスト・ジェネレーションにかかってきて、暫くはやってたけれど、やっぱりいろんな事情で辞めていった。そんな役者さん・作家さんって結構多かったと思うね。なんでかなあ、と思って振り返ってると、経済と言うのは要因として大きかったと思うし、一つは割とあっさりするようになったね皆ね、その頃から。この前お話していたような、70年代80年代の人たちは割と粘り強く、劇団同士でもライバルであったり、割とそういう意味で闘争心があったり、今から言うと古い体質の演劇人の体質というのを持っている人たちが多くて、そういう人たちは割と続けている人が多いと思うんだけど、77年生まれ前後から、厳しい就職氷河期を経て、段々国自体も所謂バブルの絶頂の後、下降線を辿る時期にあたって、演劇を始められた・そして渦中にあった方って、勿論続けている方も幾つかいらっしゃるけれど減ってきたと言うか、あっさり途中で辞めていった劇団もけっこうあったんちゃうかな。なんでかなあと思って。割とあっさり辞めていく人が多くなった気がしてね、それ以降ね。結婚されるとか、就職の関係或いは演劇で食えないからということもあって辞めていった人が多かったのかなあと・・・僕の勝手な推察やけどね。
それは社会情勢と結びついているのかなと思うし、同時にその各劇場間の問題もあって―あの、大阪市さんなんかは芸術(文化)アクションプラン(註3とか。その前後ぐらいから大阪にオリンピックを招致しようというような動きが一時あったり・・・北京オリンピックになっちゃったんやけど。あの頃から行政もいろんなプランを出して、トータルにオリンピックを招致する時にスポーツ施設だけやなしに文化施設とか。都市機能というのもこのごろ何年間か評価されているから、かなりお金を投下して、今問題になっているようなWTCとかバブリーな施設を作っていった・・・

三田村 ハコモノというやつですね。

福本 で、大谷さん(註4)のいらしたフェスティバルゲート(註5)もそうやと思うし、そのあたり幾つか残骸が残っているわけですけれど。所謂税金を投入して、客を呼ぼうということ自体も含めて計画したのはバブルの時代やと思うねんけど、それでかなり投入したけれど結果、北京(オリンピック誘致)に持っていかれて。
大阪府や市としてもその当時文化には力を入れるということで、その予算としてはスポーツ施設に比べると少なかったかもしれないけれども、色々企画をした。で、それでもオリンピックがダメになり、景気も段々悪くなり大阪自体も地盤沈下が進行してきた中で、計画もだんだん21世紀に入ってころころ変わるようになって、指定管理者制度が出てきたり、その一方で精華小劇場(註6)をオープンさせたり―それは演劇人の人たちが声を上げたっていうことが大きな力だったと思うんですけど、ころころ二転三転したような・・・一方にはフェスティバルゲートがあります、芸術創造館(註7)もあります、途中から精華小劇場が出来ましたっていうくらいでたくさん施設は出来た、でもところが、それぞれオリンピックだとか或いは景気の問題、或いは国の政策で指定管理っていうようなことで、ハコを作って中期くらいのビジョンでやったけれども、結局景気と国の大きな政策転換で、それぞれのハコに対して行政がある意味信念というか、確固たるビジョンを示せないまま終わっていったような気がしてね。行政だけの責任じゃないのかもしれないけれど。
そういうのがある一方で、小屋はその当時増えたわけですよね。施設としてOMS(註8)とか近鉄(註9)とか、演劇双六の上がりのようなところはその時に無くなったけれども、その補完作用として芸術創造館とかダンスボックス(註10)とかが出来て、施設として数はそんなに増減はしてなかったような気がする。

三田村 2000年代の半ばくらいまではそうかもしれませんね。

福本 だけれども、皆の認識―表現者もそうやし大阪市とか行政の人たちもそうやけど、所謂ここが拠点なんやという意識をそんなに強く持たなかったんちゃうかなと思うねん。

三田村 拠点意識、ですか?

福本 拠点になる場所。それまでは扇町ミュージアムスクエアというのが一つあって、皆そこを目指した。その上は近鉄系っていう、そしてさらに東京というのを思っていたけど、その・・・芸術創造館は練習施設と言う本来の役割があって、それを回転率を途中で指定管理導入の前に上げろと言われて、キャンパスカップだったりマンスリーシアターだったりクラシックルネッサンスだったり、独特の企画を小堀さん(註11)や岡本さん(註12)が立てていかれたわけなんやけど、それはそれで成果があったと思うんやけど・・・何だろう、長い目でビジョンが見え始めた頃に、指定管理になったり、景気が悪くなったからといってフェスティバルゲートであっても閉館に追い込まれていったりっていうので、中長期的にハコ作っても、それに対する視点ていうのが何か欠けていた様な気がして。

三田村 それは行政側にですよね。

福本 で、例えばウイングフィールドとか幾つか民間の劇場の数も増えていたから、その当時出来て、今はもう無いけど出来た小屋もあったんですよね、民間でなさってたような。創造館の近くにマジックランプっていう小さなハコが一時期あって・・・それも何年かで無くなったね。

三田村 その名前は始めて聞きました。

福本 演劇をしてた人がやりはってたんやけどね。・・・ハコはあったんですよ。でもそういう施設に対して、行政側が長くしっかりそこを応援しなかった、でそこに国の制度も変わってきた、っていうことがあって、もうひとつ拠点が出来なかった。
で、ハコが増えたから段々劇団としての選択肢は増えるわけでしょ。そうすると、言えば段々ウイングが使われなくなってきたっていうことも事実。
そういう、なんだろう、安い企画―公立劇場批判するわけじゃないんだけど、公立劇場は予算を国や自治体から貰って、企画運営をしてそこに、それに相応しい劇団さんを投入して、劇団さんにその企画での公演をやって頂くとなった時に、小屋代のそのものは殆どかからない場合がかなり多くて。勿論美術とか舞台設備或いはチラシとか、他のとこでかかることはかかると思うんやけど、企画でも作られるところが例えばアイホール(註13)さんだったり、メイシアター(註14)さんだったり芸術創造館さんだったり、フェスティバルゲートさんだったり、民間の劇場を取巻く行政の劇場がそういう企画を立てられたもんやから、民間の劇場がどうしてもそこで有料で使っていただくと言うことを建前にしている以上は、劇団としてはやっぱり公立の劇場の企画の方へ、そっちへ行くやん、負担が減って少ないし、そのほうが企画性としても面白いから。
民間なんかはどうしてもそこへ中々お金を、我々としては再演博とか若手劇団応援だとか色んなネーミングで企画をしたけれども、年に1回はやっていたところが公立劇場の方を廻りだすということが出来てきて。民間の方もさっき言ったマジックランプが出来てたり、インディペンデント(註15)さんは当時ジャングルの1stを作られたりして、皆がお互い食い合いになってきたんね。

三田村 競争がはじまったんですね。

福本 そうそう、そこへ景気が厳しくなり雇用も皆厳しくなるから、だんだん企画性のある公立劇場の方へ皆シフトするようになった。

三田村 値段的なこととあわせてですね。

福本 そう、小屋代も含めて。そうすると当然民間の劇場は一番あおりをくう訳やから、入ってくる本数も減っていく、ジリ貧になってくるねん、いっぺんにドカッと来たんじゃ無しに。ちょうどボクシングで例えるとボディーブローのように。そういう公立劇場が幾つか出来てそこで企画をやるということで劇団さんがそちらへ行くと、段々ウイングの方に向いてくださっていた劇団さん・今までやって下さっていた劇団さんも回数を減らすようになってきて、稼働率がじわじわじわじわっと下がってきたんですよね。いっぺんに下がらなかったんですよね。

■ ウイングフィールドに何が起こっていたのか

三田村 そうなった時期としては2000年代半ばくらいからでしょうか。

福本 そのあたりから顕著になってきたね。それはまあ―僕は別にそこで公立劇場が悪いとかそういう問題を言ってるんじゃなくて、それはもう基本的には僕はこういう仕事、他の商売・企業さんでも何でもそうやと思うけど、やっぱり適者生存というか、ある種の競争原理でもあるわけやから・・・

三田村 資本主義社会ですから・・・

福本 そうそう、仰るとおりのジレンマやと思うし、それは仕方ないと思う。だからまあウイングだけの場合で言えば、なぜああいう風に2008年に閉館を宣言せざるをえなかったかって言ったら、こちらの企画力の問題もあるし、そして精華もそれと同時に―指定管理が始まって精華さんが出来て ・・・精華さんには私も入ってたんやけど、そこで企画演劇祭やないですか、だからやっぱりそっちの方へシフトするということになってきましたね。だからプログラム・公演する回数は減ってきている。まあ勿論、やり続けてくれた人もいる。例えば深津さん(註16)なんかは、彼も桃園会で精華にも行ったけれども、のりうちに参加してくれたり、しばしば戯曲塾を彼はここで・・・

三田村 そうですね、発表会は僕も何度か観に行きました。

福本 彼は一見クールに見えるけど深津さんはそういうときに助けてくれた。そういう人もいた。
だから僕は決して、公立劇場が出来たから、景気が悪くなったからっていうことだけで悪いとは思ってないのね。だから行政も劇場は敵だとか思ってない、それは資本主義の競争原理、適者生存という世の中の習いで、結局企画力、というかウイングにそれだけのレゾンデートルが無くなっていったんだっていうことは事実だったと思う。伝わらなかったんよね。でそこにお金がかかるっていう。その両方があって、で、お客様になる劇団さんも正直やから、財布の紐のことも両方考えて、企画力とか、そういうもののあるところに当然シフトしていくというのは避けられなかったとは思うね。で、そのことを恨むとかそういうことでは無いと思う。それはあくまでもウイングフィールドという劇場の辿ってきた道やと思う。
1999年に中島陸郎さん(註17)が亡くなって、そのあとウイングは私と寺岡さんと中心になって動いてきたんですけれども、どっかに中島さんという金看板が無くなって、やっぱり残った我々がする企画に対する認知度の低さと言うことと、企画力の問題だったと思うねん。
で、もう一つは劇団さん側からよく言われたんやけど、ウイング(劇団)入ってるでしょっていう認識もあったみたいで。

三田村 劇団側からは劇場に人が入っていると思われ続けていたということですか。

福本 90年代が結構詰まってたし、中島さんというビッグネームがあったから、一時扇町さんより回転していたっていうこともあって、ウイングフィールドは入ってるっていう風に、ベテランや中堅さんは僕らが行かんでも若手が来てるやん、と思ってはったみたいで。

三田村 そうなんですよね。僕も(閉館問題の時は)非常にびっくりしました。その頃は大阪の現状がどうなっているかというのに疎かったというのもあるのですが・・・一体何が起こっているのだろう?と。僕は学生の頃からウイングに足を運んでいたんですが、観に行った芝居も人がいなくてがらがらなわけではなく・・・とにかく衝撃がありました。

福本 やっぱり我々やっている当事者でないとわからへんもんね。お客様にも思い込みが―ありがたい思い込みやと思うけれども、それはある意味仕方ないよね。僕らも何処かで力不足やったことも事実なんで。残念ながらね。一生懸命僕らはやったんやけどそれは通じなかった。そこへほら、あと一時えらいことして閉館しちゃったけど、タイニイアリスの大阪版、イスト(註18)さんも出来たりとかして色んな企画をしたり。そういうライバルが増えるとね、当然ながら比較されて、小屋代が安くて企画性がある所にやっぱり若い劇団もシフトしていく、そういう一つの時代の流れやね。

三田村 新たに入ってくる若い劇団さんの数が減ったというのが大きいんですかね。

福本 それもあるし、中堅以上の劇団さんも当然回数を減らすっていうことで、両方で経営面が厳しくなって、つまり廻らなくなってきたっていうね。

三田村 前回のインタビューで、月に(プログラムが)1本の時があったと聞いたんですが本当なんでしょうか。

福本 あるよ、ほんま。公演の日数も減ってるでしょ。段々穴が空いて来る様になってきて(ウイングホットプレスを見ながら)・・・10周年以降きつくなって来ている筈。年を追うごとに。08年の前くらいは入ってるときもあるけれど、年度末やからこれは。・・・これなんか寺岡が色々考えて、舞台監督の谷本さんなんかと一緒にワークショップを。

三田村 リアルに1本だけの月もありますね・・・

福本 前年の07年ですよ。桃園会さんが入ってくれたりもあるけれど、のりうちもあったりで、C.T.T.さんが入ってくれたりもしているけれども。これ丸空きやから。やっぱり一月これだけ半分これだけプログラムがなくなると痛いです。給料を払わなあかんから。一応家賃も払ってる。段々とこうして増えてきて、08年の1月なんかこんなんやもん。くるみざわさん(註19)がやってくれて、橋本匡(註20)君がやってくれて、年度末だけ駆け込み需要で。助成金とか色んな都合も合って。これも見学日とか劇場崩壊というシンポとか、ワークショップとか。ここも4月頃とかC.T.T.さんのその前後とか。入らないから寺岡さんが見学でも何でもやってもらいましょうと。こんな感じになっちゃったのよ。
だからやっぱりその辺を考えて、あの時点、08年の夏の時点でこんな状態だったから、この時期第2劇場(註21)さんなんか急に阿部さん(註22)が閉まりそうやから貸してくれと、そういう突っ込み方。この時に決まってたのはC.T.T.さんとはせさん(註23)が来るのと、豊嶋さん(註24)2日間とかそういう感じに段々なってきて先が厳しくなったのよね。給料も遅配がある時期があったり。―例えば彼にお支払いするのに2回に分けるとか。ぶっちゃけた話(笑)

寺岡 ちょっと僕はこういうことはあまり言って欲しくなくて。それはある程度、夢じゃないけど、ある程度こういう仕事に対してですね、幻想の部分は持っておいたほうがいいと思う。

福本 いやー、俺はそれは駄目と思う。幻想を持ってもろくな事はないから夢を追うのは辞めようぜ(笑)って、あくまでそれは経営している人とプロデューサーの違いと思っているけど。
僕は思ってるんやけど、夢は失いたくないという気持ちと同時に現実は厳しいよ、っていうことがあって。

寺岡 三田村君と音楽の話をこの間していたけど、マニアックなものとかあるやん、タワーレコードとか街のレコード屋さんにもあるやん、そして、我々は街のレコード屋さんみたいな感じ。セレクトショップみたいな雰囲気があって。きっと今でも。でも、そういうところって買う人がいなくなったら閉めちゃう(笑)

福本 本屋さんでもそうやし、街の本屋さんとかマニアックなものを売っている本屋さんていうのが。そういう流れに世の中が成ってきたじゃないですか、経済自体が所謂グローバル化、それにどっか似ているのかもしれんね。だから企画力、金銭上の問題、そういうことも孕んでうちの懐事情、経営者として、これだけ一生懸命やってくれているスタッフさんに対して、給料の遅配とかプログラム自体が減ってきているということは、まあ言ったら経営者として失格やん。私が努力して無いということやから。
でも、先に幾つかぽんぽんと(プログラムが)入っていると。なじみの劇団さんとか若い劇団さんで来てくれている。でも一番その時に怖かったのは、数字的に厳しい、で、そういう状態だ、いざじゃあにっちもさっちもいかなくて急に閉めざるを得ない状態が生じた時に、劇団さんに凄く迷惑がかかるじゃないですか。

三田村 そうですね、先の予定まで考えて押さえているわけですし。

福本 一年先半年先でぽつぽつと押さえて下さっているところが、それこそウイングで、と思って来て下さっているわけやから、出来なくなるやんか。勿論まあそういう時はどこかを代替でこちらがお支払いして押さえてやって頂くということになるけれども、それすら金銭的に出来るか出来ないか分からないという状態があって。で、ここもルームシェアしてもらったくらいやから、テナントさんも段々減ってきて。まあ今はおかげさまで4階全部まで入ってるし、この部屋もDIVENPO法人大阪現代舞台芸術協会)さんに、小堀さんにルームシェアしてもらっているわけなんですけど。
だけれども、両方が厳しいと、もうこれはいよいよ潰してしまうことで―潰れてしまうのを待って無理してやって、劇団さんに迷惑をかけるということは僕としては耐え忍びがたかったんね。耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び(笑)続けてきた夢だけは失うまいと思って続けてきたけど、皆が、スタッフが手前味噌やけど努力してくれているけど、成果も上がりにくくなってきている、これは潮時かな、と思ったんですよ。だから大崩壊を起こす前にブレーキを踏もうと。あっさりと手を上げようと。そうしないと劇団さんに迷惑がかかるなと思ったんで、入ってるところまではやりますって、来年3月。あの時は8月ぐらいやったかな、6月頃に決めたんですよ、辞めるっていうことを。

■ そして決断へ

三田村 ちょうどその年、オープン時と同じタイトルで、毎回劇場の方や劇作家の方などを招いてトークイベント「現代演劇は衰退に向かっているのか?2008」と言う企画を4月から始めてらっしゃいましたよね。

福本 うん、その全体の状況があって、これはいよいよ危ないなあということになってきて。

三田村 それが6月あたりですか。

福本 うん、ちょうど中島さんのお墓参りに行った後にね、小堀さんとはせさんと岡本さんと私とで行って。お墓参りの跡にいつも飲み会してんのね。で、その4人が残ってくれはって。実はウイング辞めようと思ってるねん、って言ってしまったの。いや、もう言っておこうと思って、友達やから。随分皆さんにもお世話になっているので。それが人前で話した最初。
まあでも、すぐそういう話は広がるから色んな声は聞こえてきて。辞めろと言った人は殆ど無くて。まあ若い子でね、ある子はね、まあ17年もやったんやからそりゃしゃあないで、って言った人もいたけれども(笑)、世代交代の時期でっせと言った人もいたけれども、多くの人はびっくりされたり、或いはなんで辞めんねんと言ってくれたり。小堀さんなんかは、俺は出けへんけど誰かを紹介するから、そういう人に資本家に成ってもらってバックについてもらって、所謂パトロンになってもらって続けたらどうや、っていうことも提案して下さって。望むんやったら探してみてもいいよということは言って下さったり。色んなことがあって。燐光群の坂手さん(註25)も内藤さん(註26)にその話をして、内藤さんが何で辞めるねんという話になって、何とか続ける方法を皆で考えようやっていう話も内藤さんがしてくれはったり。
皆さんウイングはわりとやれていると思って下さってたのよね。

三田村 そうかもしれないですね。皆寝耳に水だったというか。

福本 そのとき空の驛舎さんも2009年になってからかな、やって下さったのも入ってたんよ。だからそういうお友達の劇団さんがぽつぽつと入れて下さっているのもわかってるんやけど、わかってるからこそ逆にご迷惑をかけるっていうのが凄く辛かったんよね皆に。だからぽつぽつと入って下さっているところまではやろうと。例えば空白になる2009年の春以降には閉めようとあの時は考えていた。

三田村 スタッフの皆さんとも相当会議されたんでしょうか。

福本 だからもう会議して話して納得してもらって。・・・納得してもらったかは別として()

寺岡 僕が言ったのは、もっと早く俺は辞めるって。その方が負担を減らすことは出来るやん。俺がずっといて給料を貰っているよりも・・・とかは言ったけれど。まあ続けると言うことになったのでやりますと。

福本 08年の8月、ウイングを辞めるわけということで月曜倶楽部でさせて頂いた時に、あれまでに僕なりに考えた訳ですよ。そういう辞めるなという声を沢山頂いて。なんで辞めるねんとか、或いは辞めるんはあんたの勝手やけれども、僕は続けて欲しいと思ってるから色んなアイデア出しますよ、と言ってくださった人も無数にいて。ウイングでやってくれてる人たち、岩崎さん(註27)だったり深津さんだったり、はせさん小堀さん、内藤さんだったり色々いてはった。若い方からもそういう声があった。聞いたとたんに泣き出してしまわれた方も何人かいらっしゃった、それはちょっとびっくりしたけれど(笑)、だから自分で自問自答したわけですよ。もう一回。

三田村 言うまでも無いですがやはり、ここまで続けてこられたものを辞めると言うのは、相当悩まれた末のもの凄い決断だったと思うのです。

福本 内幕の話やけど、寺岡さんにしろはたもとさんにしろ、やっぱり長いこと一緒にやってるとその人たちのことを考えるやん。チームで、この三人のトライアングルでウイングを進めてきたわけで、寺岡さんが若い人たちをサポートして、ベテランの劇団さんが入ってもそうだけど、色んな企画を立ててくれて、はたもとさんはそんなに表で動かないけれど、マネージャーとしてお金の算段とか、ビルとウイングフィールドと両方の会計をしてくれているし、心苦しいことが無いわけでは絶対無いわけでね、そこに加えて劇団さんに対する気持ち・・・だけど辞めると言わざるを得なかった。で、まあそれからだんだんその逆反応で皆さんが惜しんで下さるようになって、もう8月にはもうちょっと続けようかと心の中で決めとった(笑)。
何故かというと、もう1回自分で自問自答したわけですよ。福本は演劇が嫌いなんか?或いは自分自身がやってきたことが嫌いなのか。どうなんやろと思った時に、演劇に随分助けられて17年間ここまで来た、決して1人でじゃなく―自分は経営者やから、経営者なんか勝手なもんでね、野球のピッチャーみたいなものやから、投げんと始まらんと思ってる部分もあるんだけれども、やってくれる人がいて、で公演を進めてくれる人がいて、観に来て下さるお客さんがいて、ていう中で随分救われたところもあったやないか、で、自分はまあ38歳でこれを―ウイングフィールドっていうものと・中島さんと出会って、始めましょうということでスタートした。そこで、自分がそれまでに生きてきた中で養ってきた・やろうとしていたこと、ライブハウスであったという部分もあったけれども、そういう生きる術を見出したのはなんで見出したかって言ったら、こういう空間を作ってそれをやっていくということで自分の存在をやっと掴みかかったわけですよ。で、まあ悪戦苦闘、不器用な生き方で悪戦苦闘しながら続けてきたことは事実なんでね、それを自分なりに何日間も考えた結果、翻そうと思った、もっかいやろうと思った。まあ死んだようなもんやから1回。自分で死亡宣告を自分に出しておいて言うのも非常に無責任かもしれんけども、生きてきた証みたいなもんは、ウイングフィールドなんだ、と思った訳なんですよ。で、そこに皆さんが集って下さったということ、そしてそこでその当時沢山の人が色々と前向きなアイデアをたくさん出してくれた。そのことも含めて、1人で決めて1人で辞めるんやったら己の勝手やけれども、あれだけの人があれだけ言ってくれてるんやから、と思ったの。
で、小堀さんと話をして、そしてあの時は賢司さん(註28)DIVEの代表として出てくれはってお話をして。

三田村 あの日はもの凄い人の数でしたね。

福本 そう、いつ途切れるかと思うくらい。

三田村 長蛇の列、並んでましたよね。僕も行ったのですが、舞台上のスペースにまで人がすし詰めで・・・

福本 そうやねん、130人以上くらいは来て下さったかもしれない。だからその熱気もあるやん。まあ決めとったけれども、一体いつこのお客さん途切れるねんと思った時に、これはまいったなあと嬉しかったけどね(笑)。
そしてちょっと話前後するんですが、ウイング始めたころにね、中島陸郎さんが言ってたんやけど―この前も喋ったかもしれへんけど3年・5年・7年といった時はいつ辞めてもええよと言ってはったんやけど、最初のころに、ケツわったら皆呼ぶぞって言ってはって(笑)、そのことを思い出したね。

三田村 ケツわる、っていうのは・・・?

福本 大阪弁の古い言い方をするとね、途中で辞めることをケツわるって言うねん。

三田村 辞めたら皆呼ぶぞと(笑)

福本 つまり演劇人を呼んで、オーナーよ辞めるなと団体交渉をするぞっていうね。中島さんは労働運動をしてはった人やからそういう用語を使いはんのやけど。最初の頃はそんなことを言ってはって。

三田村 やめてもええぞ、と仰っていたのにですか?(笑)

福本 まだね、3年目くらいまではそんなことを言ってたから。ていうのは2年目くらいまでは赤字だったでしょ、だからそんなこともあって、そのことも思い出してね。そうか俺ケツわったんや・・・と思ってね。・・・やっぱり嬉しかったしね。同時に自分で本当に自分に問いかけた時に、ここを辞めて自分の住処にもう1回するとか、或いは演劇人の人に月曜倶楽部じゃないけど、1人で住むには広すぎるから、上潰したら。半分開放して好きなように使ってもらったらええやんか、と引退後のプランも考えとったんやけれども(笑)、やっぱりね、人のそういう気持ち、そして自分自身を振り返った時の―あまり後ろ振り返れへんから、この企画も嫌や言うてたんやけど(笑)

三田村 すみません(苦笑)

福本 いえいえ(笑)・・・ちょっと振り返った時に自分を否定することになるから、生きてきたこと自体をね。もう一回やってみようと。・・・いうことになったんですよ。

■ ミナミの変貌

三田村 ちなみに、この近辺の雑居ビルの状態も苦しかったと聞いています。

福本 無くなったビルはたくさんあるし、外は変わってないけど経営者の方が変わっているのが何軒もあります。だからあの頃が一番きつかったの。
不景気になって、昼が不景気やから、ここは夜の町やから、昼の経済が動かなんだら社用族が来ない。或いは社用族にならない個人のサラリーマンの人も、残業手当て出ないのに残業しろ言われ、せなあかんて社会やったから、今もそうやけど、給料だけ減るし、飲みにいく回数が減るやん。ミナミはやっぱりキタほど高くないけど、そんなに安い店ばっかりではないから、会社の近所で飲んどこかとか立ち飲み行こかとかチープな店行くやん。

三田村 ミナミ自体が活性化していなかったんですね。

福本 そのころから安い粉モノの店、飲み屋のチェーン店とか、風俗の店がとっても増えだしたり。やっぱりね、それまでミナミのクラブとかラウンジとかスナックとか―まあそんなにお安くない店、良くも悪くも料理屋さんとか、そこそこ中級高級と言われたところが、バブル崩壊以降段々暇になって皆手を上げ出しはって、そうすると他のビルも家賃が入ってこないから・・・

三田村 悪循環ですね。

福本 そう、昼の経済も回らないから当然夜の経済も回らないっていうので、個人でビルを持っていた人も、或いは何軒か不動産業でビルを持っていた人も随分売却していきはって、ミナミ自体が駄目になった―それと平行していることは事実ですよね。今のミナミや道頓堀はラーメン屋とたこやき屋とお好み焼き屋さんが凄く増えた。昔はそんなこと無かったから。割とそこそこいい店もあったし。

寺岡 一見、今のひっかけ橋周辺って派手に見えますけど、あれは多分東京の資本が結構入ってますね。でっかいたこ焼き屋とかお好み焼き屋とかあるじゃないですか。ああいうところはそうだと思う。

福本 一つは名前くらい聞きはったことがあると思うけれど、道頓堀には五座って5つ、角座とか中座とか文楽座とかがあって、残ってるの松竹座だけやけど、それこそ江戸時代の歌舞伎時代から続いていた劇場街だったんですね。それが、もう今角座も中座も無いでしょう。文楽も昔は道頓堀にあったんですよ。今の国立文楽劇場にいくまで。
そういう風に戦前から戦後にかけて、幾つかまだそういう名残があって、ミナミのことはミナミなんて言わずに南地っていう古い言葉あってね。割と上等な飲み屋さん、或いは料理屋さん、大きな劇場があったから。ちょっとハイクラスに近い、ステータスだったんですよ、ミナミで飲むとか心斎橋で買い物するということは。それが景気の後退でがさーっとこの1020年の間に変わって、今のようなもの凄い派手やけれど、まるでブレードランナーのような街の状態に変わっていったっていう・・・だから当然うちのビルも非常に厳しくなって。借金も抱えてるし。

三田村 (ビル自体の)メンテナンス費用の負担増というのも挙げられていたと思います。

福本 それも結構ね。段々ビルが古くなってくるから、色んな状況で厳しい数字になったんですよ。

三田村 5・6階を支えている部分が危なくなったのでしょうか。

福本 下のテナントも出たし、そんなこともあってね、ビル建てて20年弱くらいの時やし、一番厳しい状態やったね、経済も厳しいし、こりゃあかんわ、と思って。
・・・まあ今にして思うと声に出して良かったんかなと思う(笑)こんなん言うと怒られるけどさ、ごめんなさい本当に出来ませんって言って良かったんかなあと思うねん。黙って辞めたりするような劇場には成りたくないから辞めたわけでね・・・

寺岡 福本さんの性格が良かったわけで(笑)

福本 (笑)ごめんもうようせんねん、あかんねんて言うたのは今にして思うと・・・やっぱりしんどい時、しんどいいうたらええねんな人間は、と思った。それを押さえ込むとやっぱりろくなことにならへんなという。まあええ例ですわ。お蔭様でそれ以降はこうして・・・まあ今でも厳しい・・・まあ外から見て今でもウイングは大丈夫と思われてるかもわからんけど、決して楽では無いです。バラつきあるし。

三田村 でも、08年くらいに比べたら全然上向いていますよね。

寺岡 ましには成っているけど、昔やったら、一回使うじゃないですか、そしたら楽日に精算があって、次にいついつにやりたいんで、って押さえてくれる人が多かったけど今はほぼ無いし。うちはのりうち企画っていう安いコースがあるので、それをやりたいのですっていう希望も多いよね。

三田村 確かに若手の方たちとも話していても、劇団として次の予定が無いって言う子たちも多い気がします。

福本 逆にだから、寺岡が去年から始めたウイングカップとか、ずっと続けている若手劇団応援シリーズ、のりうち企画とか、全部企画を立ててくれているのよね。
皆さん寺岡さんを怖いだけやと思っているかもしれないけれど(笑)、そんなことは無くて、ある程度目をかけた人にはあえて厳しくやっている・・・

寺岡・三田村 (笑)

■ 若い世代へ向けて

福本 いや、でもね、僕は思っているんだけど小屋の財産はそういうことやと思うねん。
皆がへらへらしていたら、或いはビジネスライクなことだけをしていたら、その当座はいいと思うけれども―そりゃ初めての人には優しいよ寺岡さんでも。・・・これはちゃんと録音してちゃんと伝えてね若い人たちに(笑)、でも、3510年くらいの人たちでお付き合いも長くなってくると当然そりゃやっぱり厳しくも成るさ、伸びて欲しいと思っているから。どうでもよかったらにやにやしてビジネスライクにありがとうございましたって言ってたら、にこにこしていたらそれでいいのかもしれへんけれども、そうじゃない時もやっぱりあるし、現場としたら仕込みやバラシの時、或いは公演中に怪我されたり出来ないことがあったら、タッパ低いけど、こけて怪我するからうちの中でもね、動線邪魔するような人だけがたくさん来てたりしたらやっぱりそりゃ危ないから注意も当然するし、企画面の事ででも相談に乗った時に、ある程度お付き合いしてさらに伸びて欲しいと思ったら彼らに言う時もあるし、私が言わないから彼が敢えて言ってくれているって言う・・・そこはね、劇場としては僕はそういうことを言うことも必要やと思ってるんです。
勿論サービスって今の世の中、11人のニーズに合わせて丁寧に話するって言うのは勿論大事、だけど反面、今若い人たちが家庭でも学校でも礼儀とかあまりやかましく言わない、或いは座学は進んでいるけど現場の学問とか、或いはバイトしていてもマニュアルさえ守っていたらそれでいいっていうので、臨機応変な動きはあまり学ばない。特に演劇の現場なんて―勿論芝居しにくるんやけどそのためのね、仕込みなどはあるわけだし、それを作っていく為の制作的な問題もある、といった時は、やっぱりこれは臨機応変な判断が望まれる場合が少なくないからこそ、ある意味きつく言う時もあるし、出来なかったら親切に言う時もあるけれども、こちらも臨機応変にあえてきつく言ってみたり、っていうこともあるわけだし。そうしていかないと、他のタッパの高い本格的な、例えばアイホールさんとかメイシアターさんとか、無くなったけど精華小劇場とか芸術創造館とか、タッパがあってしっかりした設備のところで怪我する率は高いし、他所行ってやっぱり怒られるやろうと思うねん、僕らは。
以前は怖い人も多かったけど 、そういう人が段々劇場の側にも減ってきてるからね。そういうことも含めてそういう役を―キャラをやってくれている(笑)、そういうことも劇場の中の一つのサービスやと思うし。これからの劇場っていうのを考えた時に、劇団というお客様に対してのサービスという中で勿論一人一人の演劇人、劇団に対して丁寧に対応していくっていうことも大事やと思うけれども。
昔、よく会社に鬼軍曹とか、部活の時とか先輩に鬼軍曹がいたわけですよ。手が出るような。・・・僕は絶対に手は出しませんけれども(笑)

三田村 いましたね(笑)

福本 今そういう人がいたら、逆にはみ出さされるというか、い辛くなる時代でしょう、どちらかと言うと。それか黙って従ってるか。優しい人がいると同時にやっぱり厳しくて、ほんとにウイングであいつら何習ってきよってんと思われたくないと言うのもあるし(笑)、怪我されても、或いは大きなところへ行って企画に出るときにさ、何にも知らんねんなこいつ等と思われるのも気の毒やから、色々劇場がこれから劇団さんというお客様をお迎えする時に、あり方として我々スタッフの臨機応変さ、優しさもあるし厳しさも出しますよ、ということが、手前味噌な言い方だと思いますけどサービスやと思います。

三田村 それが、ウイングフィールドという劇場のメリット、売り、ということでしょうか。

福本 メリットなのかなあ、どうかわからへんけど(笑)

寺岡 例えば劇場の話もそうなんですけど、例えば違う仕事に行った時に、こいつだめやなあと思われたらかわいそうやん、何年も付き合ってるのに、挨拶したらあ、どうもみたいな、目を見て話さないとか(笑)・・・

福本 視線そらすとか、誰これみたいなんとか(笑)・・・

寺岡 こいつ一般社会でもあかんなあみたいな・・・だから演劇って楽しみとかさ、別な場所みたいな位置づけをしているから、そこは許されるとかさ、あると思うのね。そういうだけやとやっぱり駄目なんじゃないかなと思う。一般社会と繋がってないし。

三田村 社会性を持てということですね。

寺岡 まあそれはお利巧さんにやれというわけじゃなくって、相手に合わせてうまくやらなあかんことも社会出たらいっぱいあるやんと。そういうことを思うから言っちゃうこともありますね。僕はそういうスタイルをあえて取っているので・・・

福本 寺岡 三田村 あえて(笑)

福本 ・・・余談になるけどね、犯友の武田一度さん(註29)とお話すると、若い人が入ってきはるねんけど、辛抱してやってはる人も随分いるけど、辞めていく人もやっぱりいるねんね。
親分いつも言ってる―「皆に礼儀を教えてな、丸太の組み方教えて、社会性習らって卒業して行きはる」

三田村 学校ですね(笑)

福本 そう(笑)、「このごろ思う、社会勉強にこいつ等来とるねんと思って鍛えてる」、って言ってはって。ある意味そうかもしれんなと思う。

三田村 教育者ですね。

寺岡 当然自分も勉強させてもらってるからね。

福本 だからそれでやっぱり若い人たちの気持ちもわかるしね。逆に今こうなんやと。僕らの時代は人に会うたら挨拶しなさいというのは当たり前やったけれど、今はそうじゃない。あの、バイトしてマニュアルに書いてあるからいらっしゃいませとか言うけど、マニュアルに無い違う質問したら答えられへんとか怪訝な顔してる店の子が多いから、コンビニなんかでも。やからマニュアルとしてはわかってるけれど、本当に人間の心の中―それこそ演劇の言葉と一緒じゃないですか、心の中からその役になりきって感情を出す、って言うとこじゃない、言われたことを鸚鵡返しに言ってるだけやから。
演劇はそうじゃないじゃないですか、その役になったときに、なりきるっていうことともう1人の自分がいる、そこでその役者さんたちはせめぎ合いながらお芝居を作っていくんやろうけど、今の若い人って・・・こういうことを言うのはおじさんだな・・・

三田村 いえいえ。

福本 マニュアルの部分だけ要領よく覚えて、それほんとに自分が意味をどこまでわかって言っているのかなって思う(笑)

三田村 ただ、今の若年層の雇用っていうのは入れ替え可能なんですよ。だから僕も研修とかはマニュアルで、マニュアル見ながら喋りますし、一からマニュアルなしで教えて体で覚えていく仕事の方が今は少ないと思うんです。

福本 三田村さんは役者として出ている時はそうじゃないじゃない。そりゃそうではいけないから(笑)、大事なことは社会でもそうやと思ってるねん。だからまあ、若い人はある意味それの犠牲者なんかもしれん。知らずに育ってるから。だけど世の中それだけではいきませんよ、と言うところもやっぱりあるから、本当に一人一人が、自分の考え方感じ方を大事にして―寺岡さん三田村さん福本っていうこの三者は、世代も育った環境も違う、今やってることも違う中でこうして話が成立してる、聞き手でいてて下さってるわけだけれど、それで会話が成り立つ、で、感じる、この人こうなんやと、大事なことはそういうことやないですか。マニュアル通りやったら一方通行やから。
そうじゃなく、ほんとに生きた現場っていうのはそういう人と人が、演劇って言うのはそういうものやし、人と人が出会ってそこで言葉・目線で関わって成立していく、そのことを見てくださるお客様がまた感じていい時間を過ごした・或いはしょうもなかったと思って帰るわけやん(笑)、我々がそれをしっかり舞台裏からそうしないと駄目やと思うんです。
いい芝居出来なくても、夢でもいいからそれを志してやってくれる若い人たちには世代の感覚は尊重したい部分もあるし、ああそうなんやと勉強させてもらう事は多々あるけれど、やっぱり人というか、人間と言うものが言語を持ち生きていく以上、会話していく、その自分が感じている思っていることを伝える、或いは相手から聞くって言うアナログな作業が、生きていく上で人間にとって大事なことやと思ってるんで。

三田村 そうですね。いかにインターネットが発達していても・・・

福本 そう、生きた言葉が大事やと思うので、こういうことも含めて小さなことですけれども、やっていきたいなあと思ってるんで。それで今日もこうしてここでこんな話があり、上では本番があり、という流れが出来ているのはほんとにありがたいことやと思うし。
まあある意味、ごめんでけへんねんて言ってよかったなと思った(笑)

■ これからの展望

三田村 大変だった2000年代を超えて存続しているわけですが、あそこでもし、辞めずに続けていたらどうなっていたんでしょうか。

福本 続いてないんちゃうかなあと思う。僕は。どう寺岡さんは。

寺岡 続いてないよ。稼働率もどんどん落ちて終わってるんちゃうかな。

福本 ああ昔ウイングってあったなあ、みたいな。

寺岡 逆にそういう場所ありますしね。梅田のカラビンカ(註30)とか。最近また復活してるみたいだけど、ずっと暫く演劇やってなかったんちゃうかな。そういうのって思い出にしかないやんか。
今でこそ時間が在れば他の劇場どういう状況なんかなっていう風に思ったりするねん、仕事柄って言うのもあって。どこどこどれくらい入ってるかなとか。でも気にしないと。当然三田村君とかが気にしないのは当たり前やと思う。自分のやってることがまずあって、っていう生活じゃないですか。劇団やって仕事して、そしたらいちいち他の劇場、アイホールどうかなとか思わないだろうし(笑)

三田村 (笑)余裕が無いですね、昼の仕事して稽古してそれで一日終わるなんてざらなので、普通考えないです。そんな容量無いですね(笑)

寺岡 ただ無くなったものも、ああ無くなったなとか、昔あったなとか思うだけなんちゃうかな。

福本 一般の社会生活でもそうでしょ。何か大きなデパートが無くなったいうから皆別れを惜しんで行ったり、電車が無くなるっていうから、皆でさよなら電車に行こうかってなるってことやんか、何かそういうきっかけなんよね。じゃないと三田村さんが言わはる通りやねん、皆それぞれ普通に自分の生活してて生きてたら、時々時間があったら友達のことを思ったりするけれど、考えへんやん、普段から。彼は元気に生きてるだろうとか、そういう風に解釈してるやん、それと一緒やと思う。
だから皆さんが逆にウイングフィールドああやってんのやん、そんなことないやろうと思ってくれはるのがある意味仕方のないことやし、当たり前やと思う。それだけありがたいことなのかもしれんけどね、・・・いや、いつもウイングは逆に危ないぞと思ってもらうのもね(笑)

寺岡 気持ち悪いですよね(笑)、どうですかどうですかと言われても困るしね(笑)

福本 時々聞く人いるねん、この頃大丈夫ですか(笑)、だからそれは逆にね、ありがたいことやなと思ってるよ。やっぱり他所の劇場の動きも気になるしね。

三田村 大丈夫かなという感じでですか?

福本 大丈夫かというよりは、あの、そりゃやっぱりね、俺のところよりようけ入ってるんちゃうかと(笑)、隣の芝生は常に青いのさ(笑)
・・・だから、むりやり堺筋演劇祭(註31)とか始めたのも、一つは皆さんにご迷惑をかけたし、活性化しようっていうことがあり、まあそれこそdb(註32)もフェスティバルゲートも無くなったし精華小劇場も存続しなくなる、っていうのは企画委員として加わってるとわかってきたから、3、4年前から。で大谷さんのところも厳しいねんと仰るし、芸術創造館は指定管理者になっちゃったし、ウルトラマーケット(註33)も内藤さんが厳しいと言ってはったから、そこも読み込んで、在る劇場だけで、点から面に広げようと。1劇場1劇場はそれぞれ面白いことをやっていると僕は思っているんです。それをやっぱり面として見た時に、拠点が無いとか無くなったらそれで行くしかないと思ったんで。精華も危ないdbも危ないウルマも危ないとなった時にね、ウイングも一遍ひっくり返った後でここで残ってて拠点になりえるのはアイホールさんぐらいか、とか思って、でもまあ県外やんか。行政区分で言えば兵庫県やからね、大阪に無いやんほんまに。そうした時にこの際やからカフェ増えてきたし、これ一緒になって、劇場だと言ってる小劇場空間とカフェの人たちとまず組もうと。面に広げて大阪でこれだけ面白いもんをやってまっせ、ということをアピールして、そのことで元気が無いとか、拠点が無い大阪って枕詞のように書かれる、で皆も感じることを、ちょっと変えて欲しいし、変えたいなと思ったんでむりやりを仕掛けたりして。
或いは寺岡さんもウイングカップとかも始めて若い世代を育てていかないと・・・小屋って長くやっているとほら、お得意さんのリピーターはベースにいてくれてはるけれど、若い劇団がやっぱり入ってこないとね。

三田村 そうですね。こういう言い方はなんですけど、新陳代謝、上手く血を巡らせていかないと駄目だと思います。

福本 その通り、小劇場は小さな世界ですけどそれを通じて新陳代謝と刺激が起こらないと。
やっぱり小屋としても、若い人たちが来てくれる、そうしてそういう人たちがまた次の世代を担ってくれるっていうことが大事やと思うから、こうして寺岡さんとかが色々考えて、文字通り兄貴分となって引っ張って時々きついこともいいながら(笑)、動いてくれている、ベテランの人たちにも来て頂き、若い人たちにも来て頂いて活性化させるのがこれからの役割かなと思って。
そして面としての大阪の小劇場―今は山本能楽堂さんとか文楽劇場さんのような伝統芸能の劇場や神戸の劇場も入ってくれてはるし、面として広げて活性化して小劇場或いは―ライブとしての舞台芸術と言ってええのかな、舞台芸術芸能ここにありっていうことを見せたいなと思って。その辺では文楽さんなんかもそれに賛同してくださって。あそこも言ったらライブパフォーマンスですし。観ると面白いよ、この頃結構はまってる。―そうしてやっぱり声を上げていくこと、そして自らが動いていくことやと思ってますし。

三田村 その始まりが、一連の閉館問題だった―そして、そこからむりやり堺筋演劇祭も生まれた、と言えますね。

福本 一回死んだということ・手を上げたということやと思うので。それは本当に謙虚に認めたいし、そこからまたもう一回始まったという風に思ってもらってもいいと思います。

三田村 生まれ変わってまた、と言う感じですね。

寺岡 ゾンビのように蘇る(笑)

三田村 ゾンビ(笑)、もうちょっと良い例えを・・・(笑)

寺岡 土葬された(笑)

福本 幽霊か!この辺にウジが・・・想像したくねぇ~(笑) 

三田村 (笑)・・・では、最後に言い残したことなどがございましたら。

福本 これからもね、やれるところまで、行けるところまで行く。目標無い(笑)、目標は、だから皆と一緒にやっていくことやね。表現者の方やお客様と。C.T.T.がやっている企画も面白いと思うし。いろんな使われ方・使い方というものを―こんなちっちゃなハコですけれども、間口三間・奥行き二間半という中島陸郎がずっと言い続けていた実験劇場ですけども、色んな使い方をしてもらえるように僕ら工夫していきたいし、表現される皆さんも、それこそ寺岡さんが困るくらい色んなことを要求して欲しいと思うねん。古くなってくるとどうしてもなんか変に敷居の高いとか、余計古くなると神聖な、とか思われるから、そういうことは絶対ありませんので。どんどんそういうものを潰していくぐらい新しいことを―若い人たちは自分の企画で俺等がウイングを変えていくんや、作っていくんやということをやって下さったら、あ、俺気つかへんかったわそんなん、と思うようなことを、思うくらいのことをして欲しいと思いますし、そうしてもらえるように僕らも仕掛けていきたいな、と思ってます。

20111126 NPO法人大阪現代舞台芸術協会(DIVE)事務所にて 聞き手:三田村啓示)

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*注釈* [敬称略。以下、特に記載の無いものについては主にWEB上の情報からの引用です]

註1・・・土橋淳志。AMissing Linkにて作・演出を担当。関係性を重視した丁寧な演出と、知的エンタメ系を自称する脚本に定評がある。 2009、「裏山の犬にでも喰われろ!」 でOMS戯曲賞佳作を受賞

註2・・・竹内佑。劇作家、演出家、俳優。デス電所代表。2006年『音速漂流歌劇団』にて、第13OMS戯曲賞大賞を受賞。

註3・・・平成13年から10年間のスパンで展開する予定だった大阪市の「芸術文化アクションプラン事業」は、実験的芸術の支援を重視するものだった。例えば事業としては、後述するフェスティバルゲートで新世界アーツパーク事業が立ち上げられ、複数のNPOが招聘された。築港の赤レンガ倉庫現代美術、実験的な音楽の拠点として大阪アーツアポリアを展開した。芸術創造館や精華小劇場、大阪演劇祭(後の大阪現代演劇祭)もそこに含まれる。だが周知のとおりフェスティバルゲートは破綻するなど、二転三転する市の方針の中で10年プランも立ち消えになっている。

註4・・・大谷燠(いく)。NPO法人DANCE BOX代表。大阪府生まれ。1974年北方舞踊派結成に参加以降1979年まで舞踊家・制作として活動。1995年「OSAKA DANCE EXPERIENCE」をプロデュース。翌年に「DANCE BOX」を立ち上げ、ジャンルを超えたコンテンポラリーダンスの公演・ワークショップを年間約30本企画制作する。2002年にDANCE BOXNPO法人化し大阪・新世界フェスティバルゲート内に「Art Theater dB」を開設。 フェスティバルゲート閉鎖後は神戸市長田区に拠点を移した。

註5・・・1997年にオープン、2007年に営業を終了した複合娯楽施設 。新世界アーツパーク事業で入居していたNPO団体は、二転三転する市の方針に翻弄されながら、本来2013年までの活動予定であったが2007年に撤退する。詳細は⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/フェスティバルゲート

註6・・・明治6年に開校し、平成7年に閉校した精華小学校の体育館部分を、客席数約200席の小劇場に改修。大阪市・地元の方々と演劇関係者で構成する「精華小劇場活用実行委員会」が運営を担い、「精華演劇祭」をメインイベントに、主に実行委員会のセレクトした催し(主催事業)を行う「拠点」劇場として2004年オープン。しかし一転、07年に大阪市が同小学校跡地を「未利用地」と位置付け処分検討地となり、処分の準備をする為、暫定期間の10年を待たずして 2011年3月31日をもって、閉館。

註7・・・大阪市立芸術創造館。1994年より中島陸郎が個人で大阪市に働きかけを始め、公設民営稽古場プロジェクトの民間側の座長格として参画。2000115日、演劇と音楽をメインとした専用練習場施設としてオープン。芸術文化アクションプランに基づきスタートした大阪現代演劇祭と連携する形で、将来を担う学生劇団を発掘した「CAMPUS CUP」、その発展形として若手の育成を目的とした「ステップシアター」、若手、中堅の演出家を刺激し、近代から現代へと至る戯曲の地平を切り開いた「クラシックルネッサンス」、大阪だけでなく全国規模で現代演劇を紹介、発信する「マンスリーシアター」、当館発の演劇を全国へと発信する「巡回事業」 などを展開した。

註8・・・ 扇町ミュージアムスクエア 。若者文化の発信基地を目指し、倉庫を改造した小劇場「フォーラム」、名画を上映するミニシアター「コロキューム」、雑貨店「souvenir」、カフェレストラン「saloon REPAIR」、ギャラリー「ギルドギャラリー」を備え、近鉄劇場などと共に大阪における演劇文化を支えた施設であった。特に小劇場「フォーラム」は「関西小劇場のメッカ」とも呼ばれる存在で、劇団新感線、南河内万歳一座、リリパット・アーミーなど関西の劇団が活躍。 2003316日をもって18年の歴史を閉じた。

註9・・・近鉄劇場・近鉄小劇場。1954年に、近鉄会館として大阪上本町駅南側の上六小劇場跡に建設された。1985年、上本町駅ターミナル整備の一環として、全面的な改装を実施、上六映画劇場は近鉄劇場に、地階の上六地下劇場は近鉄小劇場として、同年103日にオープンした。近鉄劇場は954席を設け、劇団四季やOSK日本歌劇団、ABCミュージカルなどのミュージカルや演劇、コンサートといった公演に使われた。一方、近鉄小劇場は420席を設け、小劇団の公演などが数多く行われた。近鉄劇場、近鉄小劇場とも東京の劇団、上演団体の公演が数多くおこなわれ、大阪に東京演劇の最新動向を伝える役割を果たした。2004年閉鎖。

註10・・・NPO法人DANCEBOX2002年にNPO法人化。フェスティバルゲートにて劇場Art Theater dBを運営していたが、フェスティバルゲート閉鎖に伴い神戸市長田区へ移転。120席の劇場Art Theater dB神戸と、ダンススタジオStudio dB KOBEを運営 。詳細は⇒http://www.db-dancebox.org/index.html

註11・・・小堀純。愛知県名古屋市生まれ。現在は主に関西圏で活躍する、編集者、演劇評論家、演劇プロデューサー。プレイガイドジャーナル編集長を経てフリーの編集者、ライター。

註12・・・岡本康子。演劇プロデューサー、1960年、大阪府生まれ。劇団☆新感線で女優として活躍後、制作者に転身。オレンジルームや大阪市立芸術創造館でディレクター・ チーフプロデューサーとして関わる。精華小劇場では企画委員を務める。その後フリーの制作者として、多数の劇団、公演の企画制作に関わる。

註13・・・関西小劇場演劇の拠点の1つ。自主事業の中心は演劇とダンスで、伊丹想流私塾(戯曲講座)、ダンスワークショップ、フラメンコ教室などの自主講座なども行う。

註14・・・吹田市文化会館、愛称メイシアター。大阪府吹田市にある多目的ホール。演劇など舞台芸術の主催事業も積極的に行っている。

註15・・・大阪・日本橋にある劇場。2000年にオープンした映像上映の為の空間改装し、演劇など舞台表現にも対応できる劇場(20068月よりin→dependent theatre 1stに改名)として2000年にスタート 2004年には、キャパ約160席の新劇場「in→dependent theatre 2nd」をオープン。様々な企画を展開し、毎年開催される1人芝居フェスは好評を博している。

註16・・・深津篤史。劇作家・演出家。劇団桃園会主宰。1992年桃園会を旗揚げ。1998年「うちやまつり」で岸田國士戯曲賞 受賞。2005年には読売演劇大賞演出賞・作品賞受賞。

註17・・・中島陸郎。195060年代に10代後半からの10年間、前衛演劇集団大阪円型劇場(月光会)でプロデューサーの役割を果たしながら、劇作・演出・研究ノート等の編集に携わる。1970年代後半、-IST零番舘(大阪・長堀橋) 阪急ファイブ・オレンジルームの創設に参画した後、プロデューサーとして10年間携わる。その間、現在の関西小劇場の原点ともいえる学生劇団を中心としたオレンジ演劇祭の仕掛け人となり、「劇団新感線」「南河内万歳一座」「劇団太陽族」などを世に送り出す。198485年、文化複合施設・扇町ミュージアムスクエアの基本計画策定にブレーンの一人として参画する。199192年、ウイングフィールドの創設に際して、ハード・ソフト両面で参画。開設後はプロデューサーとして活躍。1994年より個人で大阪市に働きかけを行い、やがて文化振興課(当時)のプロジェクトに参画して、芸術創造館設立、大阪現代演劇祭開催を主導する。1999614日永眠。著書に「阿片とサフラン~演劇プロデューサーという仕事~」、「跫(あしおと)の中から足音」など。(引用先:精華演劇祭 vol.12 DIVE Selection vol.3 参加劇団募集要項 より)

註18・・・-IST零番舘(大阪・長堀橋) 2004年にオープンしたが、経営困難となり200810月に閉館。あまりに突然な閉館と公式のアナウンスが遅れたことによる様々な憶測が流れる中、 経営者による情報共有会が、同年11月ウイングフィールドで行われている。

註19・・・くるみざわ しん。劇作家。北区つかこうへい劇団戯曲作法塾、伊丹アイホール想流私塾を経て、「うどん屋」で2006年テアトロ新人戯曲賞佳作を受賞。2008年に「劇団光の領地」を旗揚げ。2009年からは詩人としても作品を発表し、2010年伊藤静雄賞佳作、2011年部落解放文学賞詩部門入選などの受賞歴がある。

註20・・・元尼崎ロマンポルノ主宰・劇作家・演出家・俳優。ウイングフィールドのスタッフでもある。

註21・・・1977年、大阪大学の学生を中心に旗揚げ。 『碧星序説』で第1回キャビン85戯曲賞に準入選した、主宰・四夜原茂の オリジナル作品を中心に年2~3回のペースで公演を行っている。 大阪での活動を中心に、今までに京都・大阪・名古屋3都市公演や4回の 東京公演なども敢行している。

註22・・・阿部茂。第2劇場主宰、演出を担当。四夜原茂ペンネームで第1回キャビン85戯曲賞準入選。

註23・・・はせひろいち。岐阜県出身。岐阜大学卒業後の1984年に劇団「ジャブジャブサーキット」を結成。89年より劇作・演出劇団代表。99年の『ダブル フェイク』、2005『サイコの晩餐』、07年の『歪みたがる隊列』はいずれも岸田國士戯曲賞の最終選考にノミネートされた。他劇団への書下ろしを含め戯曲は90作を越え、地域劇団の全国レベルでの活躍の一翼を担っている。

註24・・・豊嶋由香。主に京都、大阪の舞台で俳優として活動中。関西大学の展覧劇場を経て、京都を拠点にしていた劇団TARZAN GROUPに入団。 1996年より、劇団外の活動を開始。近年は朗読公演も行う。

註25・・・坂手洋二。劇作家・演出家・燐光群主宰。『神々の国の首都』『屋根裏』等でヨーロッパ・アメリカ公演を行う。 岸田國士戯曲賞、鶴屋南北戯曲賞、読売文学賞、紀伊國屋演劇賞、朝日舞台芸術賞、読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞。日本劇作家協会会長。日本演出者協会理事。
註26・・・内藤裕敬。南河内万歳一座・座長。1980年、南河内万歳一座 を 『蛇姫様』(作・唐十郎/演出・内藤裕敬 )で旗揚げ。以降、全作品の作・演出を手がける。

註27・・・岩崎正裕。劇作家・演出家、劇団太陽族主宰。08年より伊丹アイホールディレクターに就任、NPO法人大阪現代舞台芸術協会(DIVE)理事長も務める。

註28・・・中村賢司。演出家・劇作家、空の驛舎主宰。現伊丹想流私塾マスターコース講師。

註29・・・武田一度。大阪市出身。1976年劇団「犯罪友の会」結成。主宰、作・演出。近年は春の小劇場公演、秋の野外劇公演というスタイルが定着。昨年の「いろゆらぎ」で文化庁芸術祭賞演劇部門優秀賞を受賞した。

註30・・・1983年、大阪造形センターに併設。演劇・舞踏・美術・パフォーマンス・映像・音楽・落語など多分野を横断・接続スペースとしても機能、現代美術からデザイン・生活アート(雑貨etc.)など作品展示/発表の際は「OZC ギャラリー」として開放。2008年、カラビンカ・GalleryからOZC GALLERY+CAFEへ移行。

註31・・・大阪市営地下鉄堺筋線沿線の小劇場が中心となって行われる連携型の演劇祭。一昨年(2009年)にスタートし今年(2011年)で3回目となる。 ちなみに呼びかけ人の代表は福本さんである。詳細は⇒http://muriyari.chicappa.jp/blog/?eid=2

註32・・・アートシアターdB。註10を参照。

註33・・・関西の劇団や演出家で構成される「天下の台所改善委員会」が、財団法人大阪城ホールから、大阪城ホールの西口にある倉庫を2003年より借り受け、倉庫や劇場として利用していたスペース。だが200910月、大阪城ホールより、西倉庫を大阪市危機管理室の申し出により、緊急物資の備蓄倉庫に使用する為に閉鎖を通告。20103月に閉鎖。