2011年10月8日土曜日

ウイングフィールド代表:福本年雄さんインタビュー①

皆様、大変お待たせ致しました。C.T.T.大阪事務局の新企画・ウイングフィールド代表・福本年雄さんへのロングインタビュー 第1回目です。
まずはウイングフィールドオープン前夜から直後あたりまでを振り返って頂くという事で約70分程度、ほぼノーカットで掲載させて頂きます。
大阪小劇場を長年支え続けている劇場の一つ・ウイングフィールドという場所が、過去の大阪小劇場史の中でどのように機能していたのか、まずはその歴史を知る貴重な資料の一つの始まりになれば、幸いです。若い読者の方の為に注釈もつけております。読み応え有り、是非ご覧下さい。
 ご意見・ご感想等もお待ちしております。(三田村)

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伊藤 本日から、ウイングフィールド代表・福本さんに色々インタビューをさせて頂き、歴史を振り返りながら、関西小劇場というものを一つの視点から考えていければと思います。よろしくお願い致します。ではまず、ウイングフィールドを始められてもう何年になるのでしょうか?

福本 今でちょうど19年、来年で20年です。オープンするために動き出していたのがその前年・前々年ぐらいからだから、準備段階もいれたら21年目になりますね。1990年頃からごそごそと、まあ大阪の小劇場を観て歩いたり、東京へ行って、タイニイアリス(註1)に行ったりいくつかの劇場を観て、それこそ今みたいに各劇場のホームページが無いから、それこそ情報誌とか、演劇雑誌とかを見て載っているような劇場に電話をして、突然お伺いするというような・・・

伊藤 参考にするようなというかたちですよね?

福本 そう、だから大阪でも扇町ミュージアムスクエア(註2)に行ったり、スペースゼロ(註3)に行ったり、あるいは演劇人に話を聞いたり。

■ オープン前夜―バブルの絶頂期

福本 そもそもが、僕は相続があってここを建てて、父親と一番最初の嫁はん、今でも他のところでやってはるんやけど、新劇系の演劇人の奥さんがおったわけ。で、ビルの大家を始めて。そもそも大家さんって暇やねん。テナントさんが入るとか、そういうときの取引とか、例えば電気が消えましたとか、ささいなトラブルとかご用心とかがテナントさんからあったらそれに応対するとか、あとは金額のやりとりをするような仕事なんですね。その前はモータープールをここでやってたんで、だから時間預かりで400、500円とか、そういうお金のやり取りしか知らない人間なんですよ。でビルを建てたのが1987年かな、バブルの絶頂期だったんですね。そういう時ってここらあたりの土地の値段ってのが凄く高くて、一坪5千万て言われてたんですよ。今はその10分の1あるかないかなんだけれども。その頃に借金してビルを建てて、テナントさんを入れるということになると驚く無かれ、例えば1階だと1部屋だけで保証金3千万。僕もびっくりしましたよ、現金じゃなくてね、小切手で1枚3千万て書いてるわけ。紙切れ1枚。私みたいに1時間で500円で車を預かってたモータープール屋の兄ちゃんからしたらこれちょっと嘘やろうという金額なのね。自分の生まれて育った土地がそれだけの値打ちが有るってのが実感が沸かないわけよ。
それでバブルの時代ってのは銀行からお金を借りて、その取引先の銀行がまだお金を貸しますって言うのね。で、もう1件ビルを買ったらどうですかとか、でその土地建物は当然銀行から借金をしたら担保に取るから、そうすると銀行はさらにね―こうして日本は高度成長やバブルを成し遂げた一面でも有るわけやけれども―例えばここを銀行は抵当にとる、もう一軒古いビルを買ったらどうですかと、でまたそのビルを銀行に抵当に入れるわけ、でまたそれで増やしていくわけよ。それでまた家賃が入ってくるから毎月返せると。ビルを買ったらさ、テナントさんがいるわけやんか、その家賃収入で借金は返せると言う計算なんでね。不動産業というのはそういう仕事なわけ。例えばスーパーとかってそういう仕事なんですよ。あの、ダイエーさんとかも典型的なんですけど、まあ例えばAと言うダイエーの店が出来たらそこを担保に入れて次の土地をまた開発するお金を借りて、そこで営業する、でそこで営業した分を、借金した分は、売り上げから銀行に入っていく、そうしてどんどん広げていく、借金をしながら、事実上借金経営やねんけど、収益があがるもんやからどんどんお金を貸してくれる。昔はそういう時代やったんです。銀行はそうしてどんどん金利が入ってくるから、儲かるわけね、そうしてまた入ってきた金利を別のところに生かすって言う金融業、金貸しやから平たく言えば。だから大きな企業から我々のような街の1庶民に至るまで、もうそうしてなんぼでもお金を貸します、まあ土地の値打ちもそれだけ有ると見なされていたから、保証金が入ってくる、それが例えば1軒で3千万とかもう一軒で1千万とかになってくる、そうするとね、この5階までがテナント、6階のウイングが住んでいたところやったから、5階までで合計9千万は私は保証金を預かったわけ。ただしこれは9千万、収入ではあるけれど、出るときに返さなあかんお金ではあるわけね。僕のぼろ儲けではないです。
で、どうするかというと銀行にお金を預けるわけね。で、そうするとそこから金利がでてくるやん。で当時は景気が良いから銀行の金利も高いの。すると40万くらい不労所得として入ってくるの。給料以外。そんな生活半年続けてみ、怖くなってくるよ。夢でね、エレベーターで寝ててね、10階くらいまでね、吹き飛ばされた夢を観た。

伊藤・三田村 ()

福本 だって今まで500円で生きてたもんが、1日あたり3、4万でばんざーい言うて商売してた人間が、一瞬で3千万とかなわけじゃないですか。で、さらにお金貸してあげますって、ビル買えだとか、コンビニやりなはれとか、何かやりたいことありますかとか、それに投資しまっせとか、オーストラリアの牛買いませんかとか、銀行もそういうことを言ってくるわけですよ。土地買いませんかとか。自分に実感のないところへ持ってきてそういうやったことのないことに手を出す仕事について銀行さんから随分言われたけど、父親もいたしね、断ったんですよ。不労所得で生活したことなんてしたこと無いから怖くなってきてね。

■ 劇場への夢

福本 学生時代は音楽をしていたこともあるので、どっちかというとライブハウスなり何かをやりたかってん。自分がやりたいことを出来るような場所。最初の奥さんも舞台をやってる人だったので、稽古場・小さな公演が出来る小劇場空間があったらいいね、半分ライブハウスにしたら何とかなるんじゃないか、まあ不労所得で生活しているよりはかえってストレスが無くて良いんじゃないかと言う話になって、考えて色々そういうのを観て廻りましょうかということになった。90年ごろからごそごそと動き出して、他所の小劇場をリサーチに行って、そこの担当の人に話を聞かせてもらって、やりたいと。その当時僕よりも当時の嫁さんの方が現役で表現者に顔が広かったから、新劇系の演劇人にそういう話をしたんですよ。でもやめときなはれと。まず儲かりまへんと。最初に劇場として建った空間ではないから、今もご存知の通りタッパは低いわけやから、マンションサイズやから。劇場と言うものは、タッパが高くて楽屋がちゃんとあり、設備がちゃんとあるところが劇場と言うのですと。変なところが劇場に成っているような、まあ劇場と言いませんと。当時でも最近のような小劇場なるものがブームになってきてたけど、劇場とはあくまでも設備があるところですと仰るわけですよ。ああそういうことなんやと思って、でもまあ言われりゃ言われるほど何とかしたいなあということを二人で思っていて・・・

伊藤 家を改装してやるというのは最初からの考えですか?別の場所とかではなくて・・・

福本 それはリスクがあるから。他所の場所を借りてテナントで入って、僕が劇場やライブハウスをすると言うことは、さっき言ったようにここを抵当に入れてそのための場所を借りてっていうね、保証金払って家賃払ってっていう、そうするとまず廻らないだろうっていうのはわかっていたから、だったら自分がやりたいことだったら自分が引っ越して、やったほうがわかりやすいんちゃうかなっていう。まあ3人くらいそういうのでやめときなはれという人が出てきたけど、まあ中々諦めがつかなくて。
今でも新宿にタイニイアリスって劇場がありますけれど、前は同じように雑居ビルの4階かな、エレベーターとあとは階段の狭いところで、うちぐらいのスペースで。元はあそこも焼肉屋さんで、今は場所も地下に変わってますけどね、そこで話を聴いて、ああこういう所でも出来るんだなあと思ってたんですよ。で、大阪からも劇団が来てはりますよって、儲からへんけど面白いですよって話を聴いて。大阪では扇町ミュージアムスクエアを見に行って、当時担当してはった米良さんと言う方に話を聞いたり、スペースゼロは古賀さんていう方に話を聞いたり。そこで小劇場なるものは皆さん口をそろえて儲かりませんと、やるのは面白いけれども儲からへんよと、素人がやるんやったら経験もないんやったらやめときなはれと、皆さん口をそろえて言ってはって。それでも諦めがつかなかった。

■ 中島陸郎さんとの出会い

福本 それで、その時の嫁さんが中島陸郎(註4)さんと付き合いがあって知っていたのね。で、中島陸郎さんという人はオレンジルーム(註5)のプロデューサーから一旦引退をして、奈良の障害者の施設でボランティアをしながら自分の回想記を書いていたんですよ。
僕はオレンジルームに1回行ったことはあるけど当然中島さんにお会いしたことは無いし、嫁さんが面白い人だというから、ちょうど回想記(「阿片とサフラン」)が出版された直後で、出版記念パーティーの案内が嫁さんの方へ来ていたらしいのよ。彼女は仕事が合って行かなかったんやけども、なんだったら中島陸郎さんは知っているし、時々大阪にも出てきてはるみたいやから、1回人づてに連絡を取って会ってみないかと言われて、出版記念パーティーがあったのも聞いてるからその版元へ電話をして、阿片とサフランを送ってもらって読んでいたら、難しい文章だけど面白そうな人で興味をもったんですよ。で1回会ってみようと言う事になって。それで嫁さんの方がオープン年の前の夏ごろから中島陸郎さんのところに電話をして、連絡を取って、2回くらい2人で会っていたらしいんやけど、で中島さんがそんな人がおるんやったら会ってみるって言ってくれはったらしいんやけど、ただお互い見ず知らずやから、共通の知り合いと言うことで、当時の嫁さんが会ったわけね、で旦那がそんなことを思ってるけどどうですやろということで、で2回会ったときに中島さんが、その旦那なる人に会ってみようということになって。で、91年のお盆明けごろに、始めて中島陸郎さんとお目にかかって、実はこういう暮らしをしているんだけれども、ライブハウスなり小劇場なりを作ってみたいと思ってますと言う話をしたんです。
ちょっと話は前後するんだけど、僕もバンドやっていたんだけど、今バンドの稽古場はあっちこっちにあるけれど私らの頃は殆ど無かった。で友達の車とか、レンタカーを借りてバンドのセットを運んで、友達の家で稽古したり、たまにある稽古場、スタジオにお金を払ってやっててんけど、大抵のスタジオはアコースティック専用なんで、電気が入ると外に音が漏れて怒られるのね、まして友達の家なんかで稽古してるとやかましいだけなんで・・・

伊藤 今はスタジオなんて音をがっちり遮断してますけれど・・・

福本 昔はあまりなかってん。私の知っている限り、阿倍野に今でもアポロビルっていう雑居ビルがあるんやけど、アポロ三木っていうここぐらいのスタジオが、唯一ちゃんと防音もしてあって、他にもあったんかもしれないけどそこだけやったね。大学の軽音のプレハブ校舎に潜り込んでも防音しているわけやないし。あともう普通の楽器店の上の貸しスタジオみたいな所とか、音が大きいと近所からクレームが、まして友達や俺のうちで稽古していたら親が怒るとかさ、やっぱり自由に使えるような稽古場が欲しいなと言う話はしていたんですよ。ビートルズでレットイットビーとか言う映画があってスタジオでリハーサルをしているところが流れるけれど、そういうところがあったらいいなとか言ってたんですよ。
そんな話に加えて、ライブハウスと、小劇場の演劇ができれば面白いなと言うことをお話して、さらに2回ぐらい会ってるうちに、中島さんも興味を持ってくださって。中島さんも(福本が)素人やから最初は迷ってはってん、当然初対面の、まして怪しいビル屋のおっさん、馬鹿息子に出来るのかと思ってはったと思う。でも2、3回喋ってるうちに意気投合しましてな、それで、じゃやりましょうかと中島さんが言ってくれたわけ。でもそのときの条件として2つあって、私がプロデューサーに就任したら、主に小劇場演劇畑の人間だから、小劇場演劇が90%くらいになるかもしれませんよと。もちろん回していかなあかんから、他のものも入れたらいいと思うけど、まず自分のコネクションで、演劇を中心に回すことになりますがそれでもいいですかと。それと同時に派生した条件なんやけど、プロデューサーと言う肩書きをもらえるんなら僕が責任を持ってやりますと。だから給料もちゃんとお支払いしたわけやけど―高額な、片手に近いくらいのね、段々上がったんやけど。じゃあまあそれでお願いします、ということで91年の9月初めくらいからそんな話をし始めた。

■ 平田オリザ氏と会う

福本 まあ中島さんは色々知ってはるから、もう一度中島陸郎さんと僕で一緒に行きましょうと、2人で東京のいくつかの小劇場を観て、その時にまだそんなに知られてなかったアゴラ(註6)に行った。そこでまだ当時東京でも一部の人しか知らなかった平田オリザ(註7)さんに会って。タイニイアリスのオーナーの丹羽さんが、お会いしたときに面白い男がおるから僕から電話しとくから行ったらって、それが平田さんやってん。お父さんが演劇人で、その息子で、あんたと同じように自宅を改造して劇場をやってるんやと。只ちょっとトラブルが起こってるみたいやからその話もしてきたら?って。それで駒場に行って平田さんにお会いして、で東京は大阪よりも消防法が厳しいから、脱出口のところの、ドアの幅が狭いから、それを消防署から法令どおり広くしろと指摘されたと、まあ平田さんは言われて悔しいから、やめようと思わずにさらに銀行に借金をして広げて文句を言われないような形にしますと、で、これが今のアゴラなんですと言うかたちで見せてもらった。劇場と稽古場と宿泊施設と。その時、やられた!と思ってん。出来れば僕もシャワーや宿泊施設があったらいいなと思っていたけど残念ながらうちは6階だけやん、平田さんのところは1階はテナントだけど最初から劇場を包括した形でビルを建ててはるやん、僕の場合は思いつきで劇場を乗っけただけやん、全く逆やん。やられたと思ってん、こんな偉い、凄い奴おるねんなと、で、平田さんと別れた後、中島さんにやる気を無くしましたか?と聞かれた。で私はますますやる気が出てきましたわと。
その頃から平田さんが言ってくれたんはね、当時から劇団のリストと同じくらいマスコミのリストを作ってたんやね。マスコミが大事やから、自分達のやろうとしていることを情宣する為に関東一円の雑誌・新聞・放送局、メディアのリストというものを作って安く販売してますと。そういうところも非常に戦略的に優れた、まあそれも演劇人のお父さんから教育された、こんなこと出来る奴おるねんなと。で中島さんと帰りに、もう一つ二つ観たんだけども、まあ中島さんもコネクションを持っているから、中島さん曰くお金で売るんじゃなくて、情報やから、我々が関西で、知っておくべきメディア・演劇人のリストは創ろうと。ただそれを知りたかったら―まあそのころって20年前やからね、まあ殆どがコピーとFAXが一番やんか。でも、もし若い劇団でそういうことを知りたかったらウイングまで来て、ただで見せるから自分で手書きで写して帰れと。うちはそういうシステムをとろうと。情報をやり取りする、と言うやりかたも大事やけれど、そういうことを知りたいと思ったら、昔の図書館と同じように小屋に来て、見たいと思った人が自分で手書きで写して帰るっていうことをしたらどうかと。今で言うアナログ的な発想だけどそういうことをしたり。

■ ウイングフィールド始動

福本 ウイングを始めるについて、ここをどう劇場空間として形作っていくかと言うところで、中島さんの取ったやり方は―最初から中島さんは出来るって言ってくれた唯一の人だったんで、タッパが無くても、場所があれば出来ますと最初に言った人なんで―まず、オープンするときに大きな花火を上げましょうと。出来るだけ当時の大阪の小劇場を代表するチームを呼んでロングランをやりましょう。でその後も自分のコネクションでオレンジルーム時代から付き合った人、オレンジルーム時代に学生だった人たちで、オレンジルームを引退したあとあまり付き合いが無かった才能の、可能性のある演劇人、それを中心に、もう一つの路線はベテランの演劇人を呼びましょうと、そういうことでオープンのプログラムとして中島さんが交渉してくれたのが南河内「番外」一座やったんですよ。
内藤(註8)さんはオレンジルームで中島さんが見出した人で、万歳はあの当時ちょうど10周年だったので休んではってん。内藤さんは今年も休んではるけど10周年ごとに万歳て休団しはるねん。ちょうど10周年で休んではって、青木さんちの奥さんて作品をもって番外一座と言う名前でツアーをしたりし始めてた頃で、青木さんちの奥さんを中島さんが他の劇場でやるより予定だったんだけれども内藤さんとの付き合いで強引と言っていいのかわからんけど、ウイングに持ってきてくれて2週間やりましょうと。当時小劇場がロングランをやることが殆ど無かったらしいのね、今も中々難しいでしょう。で、やりましょうと、話題になるからと。で、当時役者として万歳からは内藤さん、河野洋一郎さんと、当時槍魔栗三助と名乗ってて、その後生瀬勝久に改名された生瀬さんと、MOPのマキノノゾミさん、あともう劇団新感線やめたけどこぐれ修さん、ともうひとりヤスイ君、万歳を辞めていた新人の子が新人の役をして、マキノさんと生瀬さんがそれぞれの仕事で交代する、日替わりで、で、当時としたらええと言われる役者を呼んで話題性を作ろうと。何故ならば誰も知らないオーナーと劇場なわけやから、やっぱり最初の1発目に劇場のやろうとしていること、そして当時もそうやし今も恐らくそうでしょうけど、すでに評価されてるスターを呼ぼう、そしてロングランをやろうと。評価をされていない人をいくら呼んだからって、それが評価の対象に残念ながら無いから、評価されている奴を一発目に呼ぼうと。それが中島さんのオレンジでのノウハウだったと思うし、劇団活動していたころからの蓄積だったと思う。僕がいちばんやりたかったことはこれなんですって、福本さんやらせてくれますか、って仰ってもちろんとOKしたんですけれども、つまり話題性を作ろうと。ウイングフィールドここにありって事を、中島陸郎復活したよということを、アピールする為にでかい花火を上げましょうと言うことでやりました。
その後まだ20代後半だった劇団太陽族の岩崎正裕(註9)さんとか、その当時は狂現舎て言ってはったけれども、今は焚火の事務所の三枝希望(註10)さんとか、第2劇場さんとか、もう劇団としては機能して無いけど関大系の展覧会のAって言う劇団、それからこの間亡くなった大竹野正典(註11)さんとか、今名古屋で新劇の演出したりしてるパノラマアワーっていうところの右来左往さんとか、そういう当時小劇場で中島さんがオレンジルーム時代にお付き合いしたり、或いは出来なかった人で、92年前後ぐらいから評価された人を呼んできた。あともう一つはベテランの、あんまり舞台ではれへんけど田口哲(まちの芝居屋さん) さんとか、関西芸術座の若い人とか、小劇場の当時のベテランや若手を持ち上げてくると同時に、中島さんの知り合いのそういう新劇系の人とか、あるいは知り合いのコンテンポラリーダンスの人を入れてみる、あとはもう今は上方芸能(雑誌)の編集長ではないけども立命館大学の当時教授だった木津川計さんという先生がいましてね、上方芸能の創始者なんだけども、その先生のトークショーとか、所謂若者と大人向けっていうのか、両方をプログラムすることでどっちか一方に特化せずに、大人にも小空間を、演劇を見たり、トークショーを楽しんでもらったりしましょう、もう一つは寺山修司の作品の映画会をやったり・・・

伊藤 実験映画ですか?

福本 ええ、中島さん自身が、寺山さんと若い頃お付き合いがあったので、だから亡くなってから交渉して、映画をここで連日やりましたよ。結構92年当時でもたくさんのお客さんが見に来てくださった。そういうことでウイングフィールドの名前が知られ始めたので、当時わがままセンセーションていう劇団やってたんやけど現ピッコロ劇団の風太郎さんとか、流星倶楽部さんとかが、どっかから聞いてくれたのか、このウイングでやりたいと言ってくれて。(現ウイングフィールドスタッフの)寺岡さんは92年の9月に流星倶楽部で現れて。今やっている高校演劇もスペースゼロさんとの共催でやりましょう、青田買いもしましょう、ということでね、若い学生さんにコンクールではない、自由なここで賞をあまり決めたりしませんから、自分で学校ごとにエントリーして、その日一日、のりうちで高校の人たちに好きなことをやってもらおうっていう古賀さんの発想に中島さんが共鳴して、オープンから高校演劇をね。
間口をちょっと広めにしてね、出来るだけ色んな世代にここに来てもらえる、そして知ってもらえるようにするって言うのが中島のオープンしたときのポリシーだったんですね。それはやっぱり今思ったら、賢いやり方やったと思う。つまりオープンしたときにロングランやってスターを呼んで、マスコミにも随分情宣して知ってもらう。でその後若い人でこれから育っていくであろう小劇場の人を呼んだり大人を呼んだり、映画もやったり高校演劇までやる、つまり劇場としての雑多な色をつけて間口を広くしようと。
ただし、小屋代は殆どオール提携。ウイングは有限会社にしたんやけど、3年目まで赤字だったらその会社はダメだから、2年目までは赤字でいこうと。出来るだけ貸し小屋料金は立てたけれども、いわゆる提携料金で100%貸します、そして若い演劇人を支援しますというスタンスを示そうと。まあ商売でゆうたら上代はこんだけやけど、20%付きでこれだけになります、実はこれだけにしときまっさ、というのと一緒でやりましょう、2段構えにしましょうと、でお客さんに馴染んでもらって、3年目からは黒字になるように変えて、ぼちぼち貸し館も出てくるやろうから、貸し館もしましょう、ただ何処で貸し館と提携とを分けるか、といった時に、中島がずっとオレンジルーム時代からやり続けていたことで聞いてはると思うけど、自分が大学のキャンパスに出かけて劇団新感線を発掘したように、あらゆる所へ行っておったわけですよ、ゲネ男って自分で名乗ってたぐらいで、ここで公演する芝居はゲネしか見ない人なんです。本番は他所の小屋にいって、例えば当時オレンジルームに行ったり、アイホール(註12)に行ったり、他所の芝居の本番を観て面白かったらウイングでやりませんかっていうようなことをずっとしていたんです。中島がこれは面白いと思った劇団は提携にします、いまいちやと思ったり全然知らないけど貸してくださいと言ってきた劇団は貸し小屋にしますと、で時々台本を読ませてもらったり。完成稿じゃなくても過去の作品でもいいから中島がその劇団のことを知らなかったらどんな劇団なのか、今みたいにビデオがそんなに無いから、台本を読めばその作家の色が大体わかるからっていうので、何作か、気に入った劇団なんかは見せてもらってアドバイスなんかして。
で、誤解されたのは中島はそうやって検閲してるんじゃないか、って言われてね。

■ オープン、そして中島さんとの日々

伊藤 利用者からですか?

福本 うん、つまり中島自身が劇作家であり演出家であるしプロデューサーでもある人だから、聞かれたら意見を言うんですよ。僕のホンどうですか、といわれた時に言うじゃないですか、なら厳しいことも言う人なので、若い子にしてみたら言われて泣いた子もいるのよ、で検閲やと陰口も言われて・・・

伊藤 なるほど・・・

福本 まあそういうこともあったけれど、中島は決して検閲のつもりは無くて、今は簡単に映像が手に入るけれど、知らない劇団を知りたかったって言うのがあってね。自分の独断と偏見やけれども、その作家を面白いと思ったら、見に行けなくても台本読んで面白かったら、いっぺんやってみまへんか、小屋代まけまっせ、っていう話をして。面白くなければ、頑張ってねっていうところだと思うんやけれども、そういうことをしていたね。それもまあ出来るだけ若い人に育って欲しいという気持ちがあった。僕はそれに対して、立場はオーナーやから―まあオーナーとプロデューサーどっちが偉いかっていったらオーナーの方が偉いらしいんやけど僕はそう思って無かったんで、中島陸郎に給料を、学費を払って中島学校に入学したぐらいの気持ち、弟子入りしたので、トイレ掃除辺りからやり始めましてね、まあ一個も覚えへんやつやと思われてたやろうけれども、そういう中島さんのやり方っていうのは一緒にやってて勉強になった・・・

三田村 中島さんはその頃は演劇活動はせずにプロデューサーのみを?

福本 ご本人はまだホンは書きたかったみたいです。何回か先に言いますけど、1人芝居の本は書いてました。あと実は「蘇りて歌はん」というこの間キタモトマサヤ(註13)さんが精華小劇場でなさったあの作品、あれが初演なのですが、実はウイングでやりたかったんですよ。自分が最後にまだ上演したことが無い作品、幾つか候補があるから一回読んでくれと言われて、やりたかったんだけど現実的な費用の問題などがあって、あえて1人芝居を作ると。ギャラ・執筆料はいらんからその代わり書かせてくれと言って書かれたんですけど、随分自分でもごそごそと書いていて、書けなかった思いを若い人に託したみたいやね。
それでまた次の回くらいの話になるんやけど、3年目ぐらいから赤字を黒字に転換する―うまいこと黒字になったんですけど、そのときに登場して来はったのが、PM/飛ぶ教室の蟷螂襲(註14)さんとか、何年かブランクがあって復活した鈴江俊郎(註15)さんとか、それから深津篤史(註16)さんを京都から大阪に引っ張ってきて「beside paradise lost」で大阪デビューしたとか、そういうことで次の2、3年にまた繋がっていくんですけど・・・まあなんかまとまりの無い話で・・・

三田村 ちなみに、ウイングの出来る前の大阪の小劇場の雰囲気はどういうものだったんでしょう?

福本 ミュージアムスクエアがある、アイホールがある、ゼロがある、カラビンカ(註17)があるというのは、名前ぐらいは知っていましたよ。カラビンカはウイングが出来てから行ったんですけど、あのね、知っていたらやらなかったと思う。僕ね、中島さんに言われたんやけど、お前が演劇人やったらやってないやろうって。

伊藤 では、ある意味充実しているとまではいいませんですけど、ある程度他の劇場があった中で福本さんが・・・

福本 中島さんと一緒に無謀に殴りこみに行ったようなもんですよ。だから当時としたら近鉄劇場・近鉄小劇場(註18)もアイホールもあるしミュージアムもあるしピッコロもあるし、カラビンカもゼロもそのほかにもある中で、無理矢理ドン・キホーテみたいに突撃した()、まあ中島陸郎という看板があったから、やと思いますけどね、オレンジやってはったわけやし。

三田村 オレンジもまだあったことはあったんですか?

福本 うん、中島さんはもうオレンジの人じゃ無かったんやけど。

伊藤 福本さんが中島さんにすごく思い入れがあると同時に中島さんも福本さんに何か感ずるモノがあったと思うんですけど・・

福本 面白いからやと思う。何も演劇のことを何も知らなかったからやと思う。

伊藤 こいつ知らんな、という感じで?

福本 そう、観たことはあっても知りませんって言ったから。昔大阪労演てあって、月例鑑賞で東京の新劇がよく来てたんやけど、まあ若くても加藤健一とか、じいちゃんばあちゃんの芝居やったけどそれでいいのを観たことはあったしね。あとそこの島之内小劇場(註19)に新劇プロメテっていうのがあって、オリジナルもやったり唐さんをやったり寺山さんもしたりしてたんで、新劇としては割合に新しい方の劇団さん。もう1人ハマザキマンという大阪のテレビで悪役ばかりしていたおっさんが、審判っていう3時間ぐらいかかる1人芝居をやったりして、それを観に行ってただけで、演劇は観たことはあるけど中身は何も知らんから、やりやすかったと思うねん。で、もうからへんでもようやると、面白がってたくれはってんね。
本当はね、中島さんはその時別の劇場からオファーが来てたんです。今でもある県立劇場から。でもね、色々と随分考えられて辞められて。何も知らないしかも個人経営の私と一緒にやったっていう中島さんが偉かったんやと思うよ。 普通、給料が安定しててほぼ公務員状態で、将来は館長の方に行くでしょう。中島陸郎ってすでにオレンジルームで名を遂げた人だったらからね。まあ独りやったということもあんのかもしれへんけど()、普通は最後の自分の円熟を仕上げようと思うんやったら、人間として安定したそっちの方を選択されると思う。だけど、中島陸郎さんていうのは常に、そうして当時無名だった若者達を引っ張り出してくるだけの勇気があったというか、本人に言わせると反骨心なんやけどね、だからだと思うんですけども、何にも知らない個人経営のところにいった方が自分の思う通り出来るし、それが中島さんの偉いところやと思う、よく思い切っていただけたなと。やっぱりそれでも流石に悩まれたみたいやけどね。僕のやろうとしていることが彼にわかってもらえるだろうかとか、或いは何年間か演劇から離れた人間が、別の人間を巻き込むのはどういうことなのかということまで考えてはった―最近中島さんのメモというか、日記を見せてもらう機会があって。そこでちょうどウイングで私と出会って、いよいよやろうかと、中島さんが私にGOと、一緒にやろうと言ってくれた前々日ぐらいの時のを読ませてもらったら、そういうことが書いてあったんです。だから、中島さん自身もそういうことであれだけ名を成したというか、出来た人でも悩んではったんやなあと思って、改めてね、すごく心洗われましたけどね。偉かったんだと思う。普通せんやろ?

伊藤 ()そうですね・・・

福本 そこがまあ、僕は小劇場の人はそういうことだろうなと思ってんねん。

伊藤 92年にオープンされたんですよね?

福本 はい、92年の3月にオープンしました。でね、ウイングはオープンが実はややこしいいねん。というのは3月の27日から、4月の半ばまでは青木さんちの奥さんで、後で正確な日にちは申し上げます、3/27-31あたりまでのオープンプレイベントとしてそのロングランがあって、正式には4月1日からなんですよ。公式に言えば1992年4月1日がオープンの日なんですが、実際はそのプレイベントとしてすでに4日間ぐらい青木さんちの奥さんをやっていて、その前にトークショーをやったんですね。「現代演劇は衰退に向かっているのか?」って言うネーミングで。

伊藤 オープンにそのタイトルって言うのが面白い()

福本 菊川徳之助(註20)さんと、中島陸郎と、小堀純(註21)さんと、それからある方がドタキャンされて、内藤(裕敬)さん。だから4人かな。その4人で「現代演劇は衰退に向かっているのか?」って言うトークショーをオープン記念にしました。

三田村 (「現代演劇は衰退に向かっているのか?」というタイトルが付けられるような)そんな空気が当時あったんですか?

福本 いや、中島陸郎というか私もそうやけど、常に危機は持っていないとっていうのはあるね。これでいいっていうことは無いじゃない。
中島さんて、戯曲を読まれたらその人となりがわかってもらえるかもしれないけれど、戦前生まれでしょ、で太平洋戦争で日本が負けて、価値観が変わったときに思春期だった人でしょ、ああいう世代の人って独特なんよね。今まで信じてきたものががらんと変わる経験を人生の中でしているから、その後も色んな経験をしているから、これで良しということはまず無いと。全てのモノは砂上の楼閣に過ぎないということ感じてたみたいね。だからあれだけ演劇が今よりある意味バブルの時期で、扇町に新感線と万歳がいて、って言う時代も危機やって言うてた。このバブルは必ずやばい。常に、同時に危機意識を持っていないと。世の中に安全というのはありませんって。だからね、色んな意味で衰退している・・・言ったら花盛りやからこそ、花盛りは絶頂期やからそれからは下るしかないっていうことの危険性も思っていたみたいね。そういうことは長生きしていたら皆もだんだんとわかってくると思う()

■ 劇場への愛憎

伊藤 その当時で福本さんは大体お幾つでしたか?

福本 僕は39。中島さんは60になっていたのか、ぐらいでした。年は言わへんかったけどね。面白いのはね、中島さんはオープンして3年目に始めて自分の歳を言ってくれたの。それも上方芸能に載っている昭和何年生まれっていうのを、この本貸すから読んどいてって見て、あららって。エッセイが載っていて、そこに昭和何年生まれって書いていて。いつも言うのはね、ハリウッドのスターとかプロデューサーはね、自分の歳を言わないものなんですとかってね。

伊藤 当時福本さんとしてはわくわく感の方が強かったんですか?

福本 怖かったよ()

伊藤 怖かった(笑)・・・無事オープン出来るのか、みたいなことですか・・・

福本 おかげでその嫁さんとは離婚したしなあ()

伊藤 オープン時に離婚・・・したんですか?

福本 そうやねん、あれよ、離婚調停とウイングのオープンと同時並行でやって、昼間は時々家裁へ行き、夜は小屋に入りみたいな、で、中島さんがお前疲れたやろうからはよ家に帰れって・・まあその、そういうことが色々あって、ですよ。やっぱり、今でも怖いよ。けどね、中島さんほど深く考えてる訳じゃないけど、やっぱり色んな面でね、そんなに気にするってね、勿論楽しいし人と出会うこともあるわけやし、けどなんだろう、ある種の緊張感というか恐怖感というか、勿論事故とか経営状態とかそういうのを一緒くたにしてやけれども、もちろん初日があいて終わるまで大丈夫なのか、まで色んなことを含めて、小屋はあくまでもお客様と表現者が一体となって、その一つの作品を創っていくところやから、そこを支える側の人間としたら、ある種の裏方的な、ベーシックなところでの緊張感というか、そこはまあ楽しみやねんけどね、も、ある。
中村賢司(註22)さんと話してた時にね、賢司さんが演劇に対する愛憎ということを言ってはって、いやー、僕も小屋に対する愛憎あるねんって言うと、そうでしょ、どっちかに傾くことはないですよって賢司さんに言われて、なるほどなあって思って。やっぱり、ええ加減にしたいなって思うときもあるのよそりゃあ。しんどいと思うときもあるさ、だからやっぱりそれも含めて愛憎やね。愛だけでは無いし憎しみだけではない、その両方が無い混ぜになったものが小屋の中には僕はあると思ってて、それはもう僕の中にあるものやから小屋に投影してるようなもんやけども・・愛だけでは、ないです()

伊藤 それはもうオープンから愛憎の交じった?

福本 うーん、気付かへんかったけどね。その当時はなんでかわからんけれど、ハイになってやってるから、気付かないけど何年かしてたら愛憎って言葉に気付くようになって、そういうことかなあと思うようになった。やるということはそういうことやと思ったら逆にちょっと楽になったけどね。それまではやっぱり必死やから、憎い方の時は自分のやってることがめちゃくちゃ憎たらしかったり腹立たしかったりもする、楽しくもあるし。

■ ウイングフィールドの由来、そして名言たちなど

伊藤 ウイングフィールドという名前は中島さんが考えられたんですか?

福本 僕はリトルウイングって、ジミ・ヘンドリックスの曲が好きで、ちっちゃいからタイニィ・アリスみたいなもんでね、リトルウイングにしようって思っててん。

伊藤 それは初耳ですね・・・!

福本 それで中島さんに相談したら、綺麗でいいと思うけれど、狭いからもうちょっと広がりがあった方がいいんちゃう?って言ってくれはって。まあコピーライターなんで中島は。それで2、3日してウイングフィールドってどうですか?っていうのを言ってもらって。まあフィールドは言ったら広がりとか、あるいは飛行場の、なんとかフィールドって言う飛行場もあるぐらいやから、草場とか広い空間をイメージする言葉やから、これから表現者が着陸したり発着する場所やから、まあ飛行場のようなもんやから、翼を休めたり広げたり、想像力が飛んでいく場所やからフィールドにしませんか?って、なるほどなあと思って。ほんでまあ中島さんの言うフィールドと、私の言ってたウイングを混ぜて、ウイングフィールド、それとガラスの動物園の・・・

伊藤 そうですね、僕、それだと思ってたんですよ。

福本 ちょっと狂った部分とをね、まぜこぜにして出来た名前です。

三田村 オープン当初はやはり全て中島さん主導で進めていく感じだったんでしょうか?

福本 中島陸郎さんがいてる頃は中島陸郎さん看板よ。成長の遅い奴やろなとは思ってはったんやろけど、まあでも中島は(芸術)創造館(註23)をやることを途中から依頼されたり―常に言ってたのはウイングの倍サイズ(の劇場)がもう一つ必要やと。ミュージアムスクエアがあったにもかかわらず、同じ系列でもう一軒作りたかったみたい。僕はそれだけの財力は無いから、それだったら中島の理想をまわすだけのハコをもう一軒作って、ウイングで出来ないことはそこでやる。そしてバッティングしない方法を考えてみたいっていうのはいつも言ってたね。で時々中島のことが記事に出たりするもんだから、お金持ちの人たち、オーナーさんになりたいって言う人が時々相談に来てはりましたけど、皆そろばん弾くと儲からんから下りて行きはった。ここは野戦病院・実験場だから、本当にもう倍の大きさのあるところで伸び伸びと表現をさせる、疲れたらウイングに戻ってくる、あるいは新人が(ウイングの)もう倍大きいところに行って芝居をやるっていうところを見届けたかったっていうのはあったと。

三田村 野戦病院という例え(註24)は中島さんが仰ったんですか?

福本 うん、そうです。だから表現に傷ついた時に、大きなハコでいつも活躍していて、表現に傷ついた時に自分で自分を癒しなさいと。表現することで癒しなさいと。それが大事やと。原点は小劇場なんだったら所謂商業演劇のような初めから大きなハコでやるんじゃなくて、原点は小さな空間の筈やから、そこから出発すると同時にメンテナンスも必要やと、だから野戦病院ってことやったんやと。

伊藤 名言がいっぱい飛び交ってきましたね。

三田村 野戦病院の例えは僕も聞いたことはあります。

伊藤 僕も聞いたことはあるけど・・・表現をして癒す。ただ休むんじゃなくて表現をして癒す、というのはハッとしました・・・

三田村 中島さんとは演劇論みたいなものは喋ったんでしょうか。

福本 たまにしましたけど、中島さんは話題の広い人でね、政治から思想から経済から酒から女やら音楽やら、どっちかというと酒と音楽と女の話が多かったな。

伊藤・三田村 ()

福本 こいつと演劇の話をしてもまともに何も知りおれへんからしゃあないと思ってはったみたい(笑)、まあでも一緒に例えばある劇団の芝居を観て、その話をしたことはありますよ。
印象に残った話をすれば、例えば1人芝居、随分盛んに若い人はやってらっしゃるけど、中島も1人芝居はよく自分でも書いたし、最後の作品も実際は1人芝居なんですけど、彼は常にモノローグドラマと言ってたんですよ。つまりその1人が舞台上で演技することは、人間の内面の声をさらけ出すことだと。だからある種の狂気なんだと。普通の演劇って言うのは自分以外の他者がいてその人と会話する、あるいはその人と対立することで自分と他者との関係性において成立するけど、1人芝居っていうのはあくまでも自分の心の中のことを吐露することなんだと。夢想も喜びも悲しみも含めて。で、その中島がいた頃から1人芝居は勿論あったわけですから、そのいかにも第三者と話をしているような、そっちの方がむしろ多い1人芝居を観ていて、あれはいかん、とよく言っていたんですよ。あくまでも、どういう他者との関わりがあっても舞台に立っているのは1人だから、その自分の中から湧いてくるものを如何に舞台の上でぶつけるか表現するかその狂気を出すか。僕もそれや、と思っていて。別の1人芝居を観たことも幾つかあるし、僕の一番最初の嫁さんは主に1人芝居をやっていた人だったんで。まあ逆に1人芝居ばかりやっているとアンサンブルが出来なくなるという弊害があるらしい・・・

伊藤 ()

福本 そういう一人芝居の話とかね、如何に表現を削るか、っていうことはよく言ってましたね。劇作家ってのは一旦それを書き出して書き終えた時に読んで、以下にそれを削っていくか、自分の産んだ子の生皮を如何に剥いでいくか、そぎ落としていくかという孤独で残酷な作業なんです。如何に簡潔にモノを言うか、伝えるか、饒舌さは逆にそこから生まれる、それが大事なんだっていうことをよく言ってましたね。かなりそういう意味で私もお芝居を観て影響を受けてる。偏った見方かも知れんけどね・・

伊藤 いえいえ、深く同意できます。

福本 まあそんな話は何回かしたね、後馬鹿話とか。誰が美人かとか・・

伊藤 オープン当初は福本さん自身は、音楽を完全にやめてらっしゃったんですか?大学の頃だけだったんですか?

福本 そう、まあ親が体調を崩したんで大学もやめたんやけど、音楽も卒業しました。

伊藤 元々舞台で歌ってらっしゃったという点で悔しいというか、そういうのはあるんでしょうか。

福本 羨ましい、悔しいというのはあるね、確かに。でも観てていいなと思えるようになってきたんですよ、この頃。まあウイングも1人でやっているわけではなくてしっかりしている人がいて、その人たちに引っ張ってもらって私はその上でわーいって遊んでるようなもんやから、いいかげんなもんなんやけどね(笑)

伊藤 大体オープン前後の話は聞けましたよね。

福本 それといい忘れたことを言っておくと、空間としてこういう場所になったのは、もちろん中島さんが大工さんと専門家を入れないと、一般の工事業者ではいかに使いにくいといえどもこういう普通の家を潰して劇場らしきものにする時にそれなりのことをしておかなあかん、最低限劇場もどきにしておかなあかん、というので、大工さんが今もたまにテレビに出てはる紅萬子さんていう女優さんといっしょにやってた、今は引退してらっしゃるけどアングラの演劇人だったヤマダコウサクさん。で、今劇団大阪新撰組さんが天王寺でアトリエをもってはるんやけど、そこでもくもくっていうアトリエ、もともとがヤマダコウサクさんや秋山シュン太郎さんやらが稽古場にしていたところで、そこも自分で叩いて。ヤマダさんが家が大工さんなんで、その人はオレンジでも出演の経験があって中島さんが親しくしてたので、ヤマダさんに頼んで内装を小劇場らしくとにかく作ってくれと。家が大工さんで演劇のことを知ってる役者さんやからやりやすい。普通の工事業者さんではないから、どうしたらどういう舞台・客席が出来るかとか。だから屋上へいくような梯子段のアイディアとか、ヤマダさんという人のアイディアなんや。他でないことをしとこうと。あと照明もいろんなところでバトンをつったり、大元のところをやってくれたんは、岡田幸博さんていう時々アトリエS-paceに出没してるけど、彼がデザインしてくれたんですよ。そういうね、演劇人がちゃんと手を入れてくれたのでね、使いにくい小屋とは思うんやけど、それをどう実践的な野戦病院に仕上げるかということにおいては良くしてくれはったと思ってます。2ヶ月ほどで突貫工事で出来てん。

三田村 最初の工事以降、追加の工事などはあったんですか?

福本 トイレの位置は全然変わってるし、自分で住んでた頃はセンターの方、上手にあったんやけど。ビルってどこでもそうなんやけど、大体トイレの位置って水周りの関係で各階同じ箇所になってるんでね、だからウイングの共同の5階のトイレの位置があるでしょ、あれと同じ位置に4階も3階もトイレがあるんです。だから6階も同じ位置にトイレやお風呂があったりしたんですけど、それを無理矢理パイプで引っ張ってきたり、舞台面の所が私の寝室やったりね、リビングやったりいろいろあるんやけど、残骸は今殆ど何も無いよ。

伊藤 当時の周りの反響はどうだったんですか?よくぞやった、とか・・・

福本 そういってくれる人もいたけど、ビル屋の不動産屋の怪しい奴に、中島さんだまされてるんちゃうか、って心配した人もいたみたい。中島さんは人がいいから、うまいこといわれて、しかもミナミのさ、こういう場所で、当時は皆貸しビル屋としか知らないじゃない、だからヤクザとちゃうか?と、しかも若いんやったらええけど、40近いおっさんが、中島さんヤクザに騙されてんのちゃうかと、すいませんこのアホでと、でほとんど回りの人は絶対儲かれへんと。でも近所の人も含めて応援してくれる人もいたし、五分五分かな。でも世の中普通そんなもんやと思う。

伊藤 アーティストの方は随分良い反響が返ってきたのでは。

福本 喜んでくれはった人もおるし、こんな狭いところでようやるとも言われた。やっぱり大きなとこを思ってらっしゃる人もおるやないですか。また当時は小劇場双六があって、やがては近鉄劇場という人がいたみたいやから、こんなところが新たに出来たからって何?という人はおったみたいやね。
アーティストの人たちはお世辞もあるんでしょうけど、面白いからやってみたら、せっかくやから、て言って内藤さんにしても、犯友の武田(註25)さんもオープンの時に、赤と黒って言う作品を、ここでオープンした時にやってくれて。俺の野外の百万分の一の大きさがウイングや、ウイングで芝居が出来へんかったら俺は野外で芝居を捨てるとまで言い切ってくれて。明後日から来る内藤さんもどんどんこんな劇場が出来たらいいよと言ってくれて。当時から若い人たちは設備の整った劇場で恵まれてやってるから、自分等が大学ではじめた時のように何も無い場所から物を作るということを知らんのちゃう、ということを内藤さんは言っていて。与えられた場所が当たり前と思ってる奴等が多いから、こういう所で苦労すればいいんですよって言ってて。ありがたかったね。今でもだからそういう人たちの声は覚えていて励みになります。それプラス、あと劇団の数だけ表現をしてくれているわけだから、このやりにくいところで(笑)・・・纏まらない話でごめんなさい。

三田村 では、今日はそんな感じで次回はそれ以降ということで・・・

伊藤 5年目あたりまででしょうか。いい節目があれば。

福本 オープンした後は3周年、5周年とやったわけですよ。余談なんやけど、オープンして3年目くらいでやっと黒字に転換した時にもうやめてええでって(中島さんが)言った事があって。しんどかったら辞めてええよって。5年目も。7年目ももうやめるかぼちぼちと(笑)・・・最後まで心配してました。儲かれへんのに、僕は楽しいけどあんたは一個も楽しいこと無いやろから、オーナーとして厳しいだけやから。辞めんのやったらもうここまで続けたんやったら、辞めて大丈夫やで、もっと現実的になってもいいよと言われたことはあった。何回か。まあそれでも何をゆうてるねんこのおっさんと思って(笑)

三田村 (笑)・・・では、そのあたりまでの話は次回ということにしたいと思います。今日は本当に有難うございました。

2011年7月30日 NPO法人大阪現代舞台芸術協会(DIVE)事務所にて 聞き手:伊藤拓、三田村啓示)

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*注釈* [以下、特に記載の無いものについては主にWEB上の情報からの引用です]

註1・・・新宿で28年の歴史を誇る老舗小劇場 http://www.tinyalice.net/ を参照。

註2・・・略称OMS 。若者文化の発信基地を目指し、倉庫を改造した小劇場「フォーラム」、名画を上映するミニシアター「コロキューム」、雑貨店「souvenir」、カフェレストラン「saloon REPAIR」、ギャラリー「ギルドギャラリー」を備え、近鉄劇場などと共に大阪における演劇文化を支えた施設であった。特に小劇場「フォーラム」は「関西小劇場のメッカ」とも呼ばれる存在で、劇団新感線、南河内万歳一座、リリパット・アーミーなど関西の劇団が活躍。 2003316日をもって18年の歴史を閉じた。

註3・・・大阪・堂島の専門学校地下にある教室を利用して作られた劇場。1988年オープン。ハイスクールプレイフェスティバル(HPF)にも尽力し、若手の育成にも力を入れた。スペースゼロ演劇賞の制定、年1回のプロデュース公演など、この劇場での出会いが集団の母体となっている劇団も多数。2002年閉鎖。

註4・・・195060年代に10代後半からの10年間、前衛演劇集団大阪円型劇場(月光会)でプロデューサーの役割を果たしながら、劇作・演出・研究ノート等の編集に携わる。1970年代後半、阪急ファイブ・オレンジルームの創設に参画した後、プロデューサーとして10年間携わる。その間、現在の関西小劇場の原点ともいえる学生劇団を中心としたオレンジ演劇祭の仕掛け人となり、「劇団新感線」「南河内万歳一座」「劇団太陽族」などを世に送り出す。198485年、文化複合施設・扇町ミュージアムスクエアの基本計画策定にブレーンの一人として参画する。199192年、ウイングフィールドの創設に際して、ハード・ソフト両面で参画。開設後はプロデューサーとして活躍。1994年より個人で大阪市に働きかけを行い、やがて文化振興課(当時)のプロジェクトに参画して、芸術創造館設立、大阪現代演劇祭開催を主導する。1999614日永眠。著書に「阿片とサフラン~演劇プロデューサーという仕事~」「跫(あしおと)の中から足音」など。(引用先:精華演劇祭 vol.12 DIVE Selection vol.3 参加劇団募集要項 より)

註5・・・1978年、ボウリング場を改修する形で阪急ファイブビル(現HEP FIVE)8階にオープン、当時極めて重要な役割を果たした劇場。当時の阪急ファイブは、若者の最先端のファッション情報基地であり、若者重視の自主企画というコンセプトの元運営され、82年5日間で3700人を動員した「オレンジ演劇祭」はその後の関西小劇場シーンを決定付けたといえる。惑星ピスタチオやそとばこまち、劇団新感線や南河内万歳一座が公演会場として利用していたことで、関西学生演劇ブームのきっかけとなった。 (主な引用先:演劇フリーペーパー「とまる。」2011年春号・連載「京阪神の小劇場史について本気出して考えてみた」坂本秀夫 より )

註6・・・こまばアゴラ劇場。東京都目黒区にある小劇場。劇団青年団の主宰である劇作家・演出家の平田オリザがオーナーを務める。

註7・・・劇作家、演出家。青年団主宰、こまばアゴラ劇場支配人内閣官房参与、大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授、首都大学東京、日本劇作家協会理事。 大阪大学教授就任後は、大阪の文化活動にもかかわっている。

註8・・・内藤裕敬。南河内万歳一座・座長。1980年、南河内万歳一座 を 『蛇姫様』(作・唐十郎/演出・内藤裕敬 )で旗揚げ。以降、全作品の作・演出を手がける。

註9・・・劇作家・演出家、劇団太陽族主宰。08年より伊丹アイホールディレクターに就任、NPO法人大阪現代舞台芸術協会(DIVE)理事長も務める。

註10・・・大阪芸大生を中心に「劇団・狂現舎」結成 。98年からは個人プロジェクト・焚火の事務所 で活動、作・演出を務める。

註11・・・劇作家・演出家。1982年犬の事ム所設立、97年散会し同年くじら企画設立。2009年、遊泳中の事故で死去。

註12・・・関西小劇場演劇の拠点の1つ。自主事業の中心は演劇とダンスで、伊丹想流私塾(戯曲講座)、ダンスワークショップ、フラメンコ教室などの自主講座なども行

註13・・・演出家・劇作家・俳優。「遊劇体」主宰。

註14・・・俳優、劇作家。劇団「PM/飛ぶ教室」主宰。1979年劇団犯罪友の会で初舞台。劇団満開座を経て、1989年より中島らもの劇団「笑殺軍団リリパットアーミー」に所属する。1994年、「PM/飛ぶ教室」を旗揚げ。

註15・・・劇作家、演出家、俳優。1993年「劇団八時半」を結成、2007年1月に活動を休止し同年12月に「office 白ヒ沼」を設立、代表を務める。

註16・・・劇作家・演出家。劇団桃園会主宰。1992年桃園会を旗揚げ。 2005年には読売演劇大賞演出賞・作品賞受賞。

註17・・・1983年、大阪造形センターに併設。演劇・舞踏・美術・パフォーマンス・映像・音楽・落語など多分野を横断・接続スペースとしても機能、現代美術からデザイン・生活アート(雑貨etc.)など作品展示/発表の際は「OZC ギャラリー」として開放。2008年、カラビンカ・GalleryからOZC GALLERY+CAFEへ移行。

註18・・・1954年に、近鉄会館として大阪上本町駅南側の上六小劇場跡に建設された。1985年、上本町駅ターミナル整備の一環として、全面的な改装を実施、上六映画劇場は近鉄劇場に、地階の上六地下劇場は近鉄小劇場として、同年103日にオープンした。近鉄劇場は954席を設け、劇団四季やOSK日本歌劇団、ABCミュージカルなどのミュージカルや演劇、コンサートといった公演に使われた。一方、近鉄小劇場は420席を設け、小劇団の公演などが数多く行われた。近鉄劇場、近鉄小劇場とも東京の劇団、上演団体の公演が数多くおこなわれ、大阪に東京演劇の最新動向を伝える役割を果たした。2004年閉鎖。

註19・・・大阪東心斎橋の島之内教会の牧師・西原明が海外留学の経験から、地域文化の発展に寄与するのも宗教の仕事であり、都会の教会だからこそ広く開放しなくてはと、1968年ごろから教会の礼拝堂を劇場として利用し始めたものがきっかけらしい。(引用先:演劇フリーペーパー「とまる。」2011年春号・連載「京阪神の小劇場史について本気出して考えてみた」坂本秀夫 より )

註20・・・演出家、俳優、演劇評論。日本演劇学会理事や日本演出者協会関西ブロック長、近畿大学舞台芸術専攻教員も務める。

註2・・・愛知県名古屋市生まれ。現在は主に関西圏で活躍する、編集者、演劇評論家、演劇プロデューサー。プレイガイドジャーナル編集長を経てフリーの編集者、ライター。

註22・・・演出家・劇作家、空の驛舎主宰。現伊丹想流私塾マスターコース講師。

註23・・・大阪市立芸術創造館。1994年より中島陸郎が個人で大阪市に働きかけを始め、公設民営稽古場プロジェクトの民間側の座長格として参画。2000115日、演劇と音楽をメインとした専用練習場施設としてオープン。

註24・・・一説には劇団浮狼舎・神原くみ子さんが中島さんに「野戦病院みたい」と言ったという説もあり(ウイングフィールドさんからのご指摘)。

註25・・・武田一度。大阪市出身。1976年劇団「犯罪友の会」結成。主宰、作・演出。近年は春の小劇場公演、秋の野外劇公演というスタイルが定着した。